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ちょい気になる絵

ちょっと気になる絵

【シベリア鉄道】東京~ロンドン鉄道の旅 総集編

2021-03-24

· EF64の貫通扉を開けてみました。

2021-03-24
Facebook江藤勝彦さん曰く 何号機だったかは忘れてしまいました。

銀座四丁目から有楽町を眺むれば

2021-03-21
4丁目のランドマークです。  Facebook福田 晋也さんより
三愛ドリームセンタービル Facebook福田 晋也さんより

有楽町から銀座4丁目

2021-03-21
Facebook福田 晋也さんより
Facebook福田 晋也さんより

新宿のムーラン・ルージュ

2021-03-20
*1931.12.31/ 新宿に「ムーランルージュ」が開場。12月16日に開場した浅草オペラ館とともに、コメディを売り物にする。
【20th Century Chronicle 1931年(s6)】-4
◎新宿「ムーランルージュ」
*1931.12.31/ 新宿に「ムーランルージュ」が開場。12月16日に開場した浅草オペラ館とともに、コメディを売り物にする。
 この年の暮に、「ムーランルージュ新宿座」が開館した。本家パリのモンマルトルにある「ムーランルージュ」から名前をとった「赤い風車」という意味で、本家同様、建物の上に大きな赤い風車があった。浅草では「浅草オペラ」が隆盛していたが大震災で壊滅、震災後復興した浅草ではレヴューや軽演劇が中心となり、榎本健一らの「カジノ・フォーリー」や古川緑波らの「笑の王国」が花開いていた。その浅草オペラでテナー歌手として活躍した佐々木千里が、浅草オペラを継承する形でムーランルージュ新宿座を開いた。
 映画「ムーランルージュの青春」 https://www.youtube.com/watch?v=3uh52M8OAwg
 当時の新宿の街は、震災で大きな打撃を受けた浅草に代って、山の手を代表する歓楽街になりつつあった。当初は浅草軽演劇の焼き直しでしかなかったムーランルージュも、昭和モダンの流れを取り入れた軽演劇・レビュー・コメディで独自のタレントを輩出し、独自カラーの演劇を確立して、1933年あたりから全盛期をむかえる。ムーランは、早稲田大学の学生や近辺に住む文化人にも親しまれ、新宿の芸能文化に触れる上で欠かせない存在となった。
 ムーランルージュ新宿座は、戦争末期には敵性語として改名させられ、さらに空襲で劇場が消失、戦後再建が試みられるも、焼け跡での軽演劇の復興はむつかしく、1951年に閉館となる。だがここで育った人材は、戦後の映画・放送界に流れ、草創期のテレビ界では、コメディドラマやバラエティショーを賑わかしたタレントを多く輩出している。以下、かつてムーランに所属した俳優・歌手で、私自身がテレビや映画で観たタレントをランダムに挙げてみる。
 左卜全・有島一郎・宮城けんじ・由利徹・益田喜頓・春日八郎・水谷八重子(初代)・若水ヤエ子・三木のり平・藤原釜足・楠トシエ・森繁久彌・谷幹一
(この年の出来事)
*1931.3.6/ 右翼団体「桜会」の橋本欣五郎と民間右翼の大川周明が、軍部政権樹立のクーデターを計画、未遂に終わる(3月事件)。
*1931.10.17/ 参謀本部の橋本欣五郎中佐ら「桜会」による軍部内閣樹立クーデターが未然に発覚、陸軍将校らが検挙される(10月事件)。
*1931.11.10/ 天津で日中両軍が衝突するなか、旧清朝の宣統帝溥儀が、日本軍の手引きで大連へ脱出する。
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