家族のページ
思い出のページ【当代と家族が歩んだ時代】
当代にとっての大阪のおやっさんです。
漸くから一気へ・・・。
森永ヒ素ミルク事件
【20th Century Chronicle 1955年(s30)】
◎森永 ヒ素ミルク事件
*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。
1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。
森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。
当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。
かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。
さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。
(この年の出来事)
*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。
*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。
*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)
*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。