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家族のページ

思い出のページ【当代と家族が歩んだ時代】

当代にとっての大阪のおやっさんです。

2023-05-28
桂文枝 (5代目) 桂南光 対談
桂文枝 (5代目) 三十石 落語
文枝 立ち切れ線香

漸くから一気へ・・・。

2020-11-01
1956年以降・・・。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1956年(s31)』
(もはや戦後ではない)
○7.17 経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表する。「もはや戦後ではない」は流行語に。
 一般の人がまず読むことのない「昭和31年 経済白書(経済企画庁 年次報告書)」の結語で、「もはや戦後ではない」という一節が掲げられ、その響きのよい言葉は、またたく間にこの年の流行語となった。お固い役所の経済報告書であるにもかかわらず、その言葉はなんと、シェークスピアの翻訳などで名高い英文学者 中野好夫の書いた言葉からの借用だという。
 戦争で破壊され尽くした日本の産業が、この年には戦前の経済水準を回復した。そしてこの後20年間にもわたる高度成長の開始を高らかにうたい上げた言葉として、人口に膾炙してゆく。60年安保改正の政治の季節を経て、岸信介からバトンを渡された池田隼人首相は「所得倍増計画」を発表する。10年間での達成を目標とした野心的な倍増計画だったが、7年足らずではやばやと達成してしまう。
 この高度成長期には、私もその世代に該当するのだが、「団塊の世代」の小中高大学という学生期間がすっぽりと収まる。真面目に努力すれば素晴らしい将来がある、このようなバラ色の未来がすんなりと信じられた時代ではあった。しかし70年安保の大学の混乱を通じて、何が正しいかはもはや言えないような状況に取り込まれた。そして私の場合には、卒業して社会に出たとたんに第一次石油ショックにみまわれ、営業職であるのに売るものがまったくないという状態に放り出された。
 華やかな高度成長時代の到来を告げたとされる「もはや戦後でない」という言葉も、実際の白書では別の文脈で用いられていたということである。戦後の経済水準に達したということは、同時に日本の持つ潜在的成長力の伸びしろを使いつくしたということをも意味する。となれば、これからはまったく未知の経済状況と取り組んでいかなけてばならない、という当惑と抱負の入り混じった言葉として述べられたと言うことである。
 現に、「神武景気」と呼ばれた好景気時代は終わり、翌年には「なべ底不況」という不景気が訪れる。ちょうど大学卒業をひかえた兄が、3月になっても就職が決まらず、鬱々としていた顔が思い出される。しかしその時期を脱すると、「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」と呼ばれた大型好景気が連なり、政府も「所得倍増計画」で高度成長をバックアップした。
 そしてこの年の末には、ニューヨークの国連総会で日本の加盟が承認される。かくして国際社会に復帰するとともに、名実ともに「戦後」は終わったと言えるのであった。
*この年
週刊誌ブーム/映画館新築ブーム/貸本マンガ盛ん/テレビが急激に普及
【事物】電子計算機
【流行語】もはや戦後ではない/太陽族/一億総白痴化/戦中派
【歌】リンゴ村から(三橋美智也)/愛ちゃんはお嫁に(鈴木三重子)/ハート・ブレーク・ホテル(小坂一也)
【映画】ビルマの竪琴(市川崑)/赤線地帯(溝口健二)/居酒屋(仏)
【本】五味川順平「人間の条件」/三島由紀夫「金閣寺」/原田康子「挽歌」/丸山真男「現代政治の思想と行動」

森永ヒ素ミルク事件

2020-11-12
当代の生まれた頃の出来事でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎森永 ヒ素ミルク事件

*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。

 1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。

 

 森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。

 

 当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。

 

 かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。

 

 さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

当代にとって、京都で喫茶店と言えば、こちらでした・・・。

2023-04-03
f絵は、facebook 小栗洋慶さんよりです。

W大の頃、授業の合間、ヒトコマ空くと、こちらを楽しんでました。

2023-03-13
【4K】「街行く路面電車」都電荒川線
昔の都電荒川線
#昭和の東京シリーズ 第6回 都電の走行シーン満載!車窓に広がる昭和の東京 都電(昭和42年(1967年))
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