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家族のページ

思い出のページ【当代と家族が歩んだ時代】

兄弟子、田代俊孝仁愛大学学長のご自防です。

2022-07-25
当代のヨキヒト、細川行信先生、ゼミ旅行等々で共に学ばせていただきました。
春に上梓されたこの著書、大ブレイクです!!
本山での安居本講のご講師をお勤めの絵です。
前住職となられましたが、まだまだアクティブでございます。
今日から4週間、門前の地区の子ども会のお勤めの稽古です。
· 仁愛大学は「仁愛兼ねて済う」(『大経』)を建学の理念にしています。

この塗装になった頃から、ほとんど乗ることは無くなりました。

2022-07-24
Facebook 田代 淳郎さん曰く、600形 626~  大牟田行き特急 桜台~筑紫 2006年1月9日
「特急は、これであってほしい・・・。」と、願うのは私だけでしょうが・・・。
Facebook 田代 淳郎さん曰く、 西鉄天神大牟田線 桜台~筑紫 2017年4月5日
Facebook 木村勇太さん曰く

この頃、当代は、九州大谷短期大学で講師を始めました。

2022-07-23
卒業文集で、この内容を投稿した学生がいました。
Facebook 崎戸 秀樹さん曰く 

1982年7月23日 長崎大水害 あれから今日で40年
各地で毎年のように水害が頻発する昨今ですが
一部地域で時間雨量 歴代最高記録となった滝のような雨が長崎市中心に3時間余り降り続いたこの災害は、長崎の独特な地形もあり長崎市・近郊の狭い範囲で浸水、土石流が多発
死者・行方不明者299人という、稀にみる大きな被害になった私が高校生の時の体験です
大雨の中、家の中にいても会話が聞こえなかったと記憶しています
私が住んでいた地域は国道が寸断され、いわゆる「孤立地域」となり、自衛隊ヘリで物資輸送を受けたりもしていたのですが、水害発生から半月ほど経って、国鉄がようやく復旧し、長崎市内中心部の学校へ通学再開となった時、カメラを持参して撮影したのがこの写真(8/9~12撮影)
長崎電気軌道は浦上車庫が裏の川から濁流が侵入し浸水
留置全30両が冠水
豪雨のさなか営業線上にいた30両のうち15両が冠水、当時に在籍車両68両中、使用可能は23両
変電所も4か所中3か所が冠水、その他多くの被害を受けるに至りましたが、生き残った1か所の変電所と20両の車両で、水害の3日後より運転を再開
3系と、1系の築町折り返しで電力不足のためシリース運転
破損したポイント、信号は手動扱いでした
水害から半月が経過し、町もかなり片付きつつあったのですが、道路はまだホコリまみれ、異臭も漂っていました
そして、写真のように、水害で流された乗用車がまだ撤去されずに残されていました。
築町~公会堂前間は西浜町あたりが軌道が濁流に洗われたため、また思案橋~正覚寺下間は思案橋電停付近の道路の暗渠が陥没したため軌道が道路代用となり復旧に時間を要し、この時はまだ復旧工事中でした。
西浜町電停は破損した電停標示が置かれ「電車は来ません」との張り紙がありました。
ちなみ、水害当日、運行停止になり乗客を避難誘導させた後も、乗務員は車庫へ撤収するまで車両監視の為に水没する車両に残り、ずぶ濡れになり、水位が上がる恐怖とも戦いながら、車両を徹夜で守り続けたり、営業所で炊き出しをした話など、当時の職員の方にお聞きしました。
もう二度とあって欲しくない出来事です。
ちなみに、濁流の中で、自動車やバスは軽いため流されたものの、自重が重い電車は意外と流される事無く、命拾いした方もいたようです。
今回40年という事で、当時のネガをスキャンし、画像を初公開させていただきました。

初めてのスキー経験は、国境のトンネルを抜けた越後湯沢・石打、そして苗場でした。

2022-07-20
当地は、九州では数少ない降雪の地ですが、上越のそれは、空前絶後の規模でした・・・。
苗場スキー場です。
Facebook 栗田 繁喜  さん曰く

雪景色も似合うね~
上越線 越後湯沢~石打 1982年2月

昭和48(1973)年、東京でのW大受験を終えて、京都への受験行脚中

2022-07-19
新幹線乗車前に、浅草の叔父が、ビッグマックを持たせてくれました。
Facebook Miyake Taiji  さん曰く

昭和46年7月、
マクドナルド国内初の1号店オープン(東京・銀座の三越百貨店1階)
オープン当時の店内とメニュー。
ビッグマックが1個200円。
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