傳燈
【 Facebook傳統他】Facebookの管理人は、釋 大仁、当山住職です。
YITC140年の歩み
YITC140年の歩み 1859年(安政6年)、横浜が開港しました。その17年後の1876年(明治9年)、横浜の山手居留地のなかに外国人によってつくられた、日本初の洋式公園(後の山手公園です)となるブラフパブリックガーデンで、日本で初めてのローンテニスが行われました。2年後の1878年(明治11年)その場所にLLT&CC(レデーズロ-ンテニスクロッケー・クラブ)の名称で創立されたテニスクラブがYITCの出発点になります。日本のテニス発祥の地です。 | ||||||||||||||||||||||
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御大典ということ
Facebook 北原 照久さん曰く
稲取金目鯛の腹合わせ 稲取の郷土料理なんです。
Facebook 鈴木 弘康さん曰く
稲取の郷土料理なんです。
地元稲取では、お祝い事の際、腹合わせにし、
二匹の金目鯛を大皿に盛り込み、祝い料理に
華を添える風習があります。
これには知人同士が腹を割って仲良くつき合う。
夫婦が腹を合わせて生涯仲良く暮らす様にとの
意味合いがあり、その思いが二匹を腹合わせ
にして甘辛く煮付けた金目鯛に籠められて
地元のお祝いの宴席にはかならずといって
良いほど、 定番のメイン料理として不動の
地位を築いています。
「不退の行法」絶えず 春呼ぶ東大寺お水取り
悠仁さま筑附高進学で“素朴な疑問”…なぜ皇族は学習院に進学してきたの?
Q なぜ学習院は「宮様の学校」なの?
宮内庁は2月16日、秋篠宮家の長男・悠仁さまが筑波大附属高校の入学試験に合格したと発表しました。4月に同校へ進学する見込みで、皇室に生まれた皇族が学習院以外の高校へ進学するのは戦後初めてだと報じられています。
たしかに、皇族の方が進学する先といえば「学習院」というイメージがありますが、地方で生まれ育った私には、そもそもなぜ学習院がそこまで皇室と関わりが深いのかピンとこないのも事実です。学習院とは、一体どのような学校なのでしょうか。また、なぜその学習院に“進まない”という選択が生まれつつあるのでしょうか。(20代・男性・自営業)
A 「一般の人たち」が学習院に入れるようになったのは戦後なんです。
なるほど、学習院が普通の学校だと思っている人が増えたので、こういう質問が出るようになったのですね。そもそも学習院は、皇族と華族のための学校として設立されたのです。
江戸時代には京都に天皇がいたので、京都に皇族、公家のための学習施設として設立されました。明治になって東京に居を移し、江戸時代の公家や殿様たちが華族になったので、皇族と華族のための学校になりました。明治の中頃には宮内省の管轄の官立学校になっていました。庶民には縁のない特別な学校だったのです。
それが、第二次世界大戦後、私立学校に改組され、一般の人たちにも門戸を開放したのです。
この歴史があるわけですから、皇族は学習院に進むものとみなされてきました。学習院の側も、その誇りを持っていたのです。
ところが、秋篠宮殿下は、特殊な教育環境ではなく、普通の環境で子どもたちに教育を受けさせたいと考えたのでしょうね。これは私の個人的な推測ですが。
(池上 彰)