闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
『TIME〛誌の表紙
2022-07-23
Facebook 西村 幸祐さん曰く
現在、アマゾンで品切れ、ベストセラー1位になっている最新号の米誌「TIME」。
イアン・ブレマーの記事の見出しは《安倍晋三の遺産は日本を超えて》。
右ページのアミー・グミアの記事の見出しは《安倍の死は、彼が果たせなかった変化の実現につながるかもしれない》となっている。日本のメディアより遥かに事実を捉えているのだが、日本メディアは〈見えない東京の壁〉の東側からの情報統制下にあるか、朝日のウイルスで脳がやられているのだろう。
伊藤野枝という生き方
2022-07-22
【文学】09.伊藤野枝という破天荒な女
幸徳秋水の大逆事件を調べていたら、関東大震災直後のどさくさに、アナーキスト「大杉栄」らが虐殺された甘粕事件につながって、その時いっしょに謀殺された妻の「伊藤野枝」の名が出てきた。さらに、野枝に大杉を寝取られた前妻「神近市子」が、日陰茶屋事件で大杉を刺す事件とか、野枝が捨てた前夫がダダイスト詩人「辻潤」であったとか、訳の分からぬ人脈が連なってきた。
その辻潤が一緒になったウワバミのキヨこと「小島キヨ」が入り浸った、「南天堂書房」二階のレストランがアナーキスト、ダダイストの溜まり場で、「林芙美子」、「平林たい子」、伊藤野枝、そして小島キヨら「自由恋愛主義」の女らが出入り、林芙美子など、テーブルの上にひっくり返って「さぁ、どうともしてくれ」と啖呵を切るとかで、「ハレンチ南天堂時代」だったとか。
ともあれ、男遍歴を肥やしに作家となった林芙美子や瀬戸内晴美(現寂聴)なども、足元にも及ばないほどぶっ飛んだ女が「伊藤野枝」だった。野枝は「平塚らいてう」の「青鞜社」に通い始め、当時の錚々たる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・岡本かの子・神近市子らと親交を深めて強い刺激を受けた。
平塚は、雑誌「青鞜」を発刊し、女性解放運動の嚆矢となったが、母性保護を国家に求めるなど、女性の自立を主張する与謝野晶子らから批判を浴びた。後年、伊藤野枝が「青鞜」の編集・発行を受けつぐと「無主義、無規則、無方針」をモットーにエリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放。情熱的に創作・評論・編集に活躍し、「青鞜」を文芸雑誌から女性評論誌、あるいは女性論争誌と呼ぶべきものに変えていった。
必然的に平塚と伊藤の間に確執が発生し、伊藤が大杉栄の下に去ると「青鞜」は休刊となった。平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのと対照的に、野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。伊藤野枝の個人主義を平塚らいてうは終生受け入れられず、伊藤を、思想面よりも、その人格や行動に対する情緒的な批判しかできなかった。
平塚は伊藤を全否定するかのように、「人格的の訓練を欠いた一種の自然人」と書いている。これは、ある意味、的を得ているともいえる。ただし、平塚はやんわり「自然人」と書いているが、むしろ「野人」ないし「野獣」と書きたかったのではないか。
野枝は「わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった」とされる。女に対してだらしのなかったアナーキスト、ダダの詩人で前夫の辻潤も、甘粕事件で共に扼殺される大杉栄も、その「わがままさ」というより凶暴さには、さすがにビビっていた気配がうかがえる(笑)
伊藤野枝は、生涯7人の子をもうけ、28歳で逝った。その思想は、アナーキスト、ダダイストの極北を行き、女権思想の最先端を行っていたともいえる。しかし、残念ながらそれを思想的に深めるだけの余地はなく、その後継者も現われなかった。若くして逝ったゆえか、それとも女性固有の情緒性ゆえなのかは、誰にも分らない。
伊藤野枝伝としては「村に火をつけ,白痴になれ」(2016/栗原康著)が刊行されている。https://www.iwanami.co.jp/book/b263941.html
「読みたい、書きたい、食べたい、セックスがしたい、子どもがほしい。ふつう、ひとはなにかをやるためには、なにかをあきらめなくてはいけないとおもいこまされている。生きるためにとかいって、まずカネのことを考えさせられるからだ。たとえば、家庭をもつようになったら、カネにもならないのに夢をおいかけたら、わがままだといわれてしまう。でも、伊藤野枝はちがっていた。やりたいことがあったら。なにがなんでもやってしまう。ひとつじゃない、全部だ」(著者からのメッセージ)
なお、映画では『エロス+虐殺』や『華の乱』などで、大杉栄と伊藤野枝が描かれている。
大本営 陸軍部
2022-07-19
Facebook 高橋晃一さん曰く
防衛省市ヶ谷駐屯地
市ヶ谷記念館(旧陸軍省一号庁舎)
1937年建設(取り壊し後、1998年一部再建)
東京国際軍事裁判所になる等、歴史のさまざまな舞台になったところです。
大陸進出の入り口は、こちらでした。
2022-07-18
Facebook 舞鶴引揚記念館 Maizuru Repatriation Memorial Museuさん曰く
~7/16、企画展、始まります~
【記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~】
本年は舞鶴市と大連市が友好都市になって40年目。それを記念して7/16より「記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~」の企画展を開催します。10/16まで。
中国・大連市は、第2次世界大戦後に日本への引揚者の出発港となった都市の一つ。終戦前の大連には20万人近い日本人が暮らしており、大連で生まれ育った方々が現在でも日本各地におられます。満洲の玄関口であった大連は当時の満洲各地で暮らしていた日本人にとっても馴染みの深い港町でした。本企画展では、終戦前後の大連の町を当館が収蔵する資料で紹介します。是非、ご来館ください。詳細は、上記URLにて確認してください。