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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢』根本敬著 (岩波書店)1996年 を読む。

2021-05-13
FacebookSyoukyou Odakeさん曰く
本文最後のことば
『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢』根本敬著 (岩波書店)1996年 を読む。
  本文最後のことば。
 「アウン・サンスー・チー、父アウン・サンガ「最大多数の最大幸福」という言葉で表現した独立ビルマの夢を、独立後40年たった1988年から、父に代わってじつげんしようとしているのかもしれない。そこには、社会主義もなければ、国家の発生論や革命論もないが、ビルマに住むすべての人々に対する「平等なまなざし」だけは、しっかりと時代を越えて引き継がれている。これこそが、封印された独立ビルマの夢であり、今、彼女はその封印を解こうとしているのである。軍事政権はしかし、その封印をけっして解かせようとはしない。彼女の闘いは、国民の希望に支えられながら、アウン・サンの夢と共に、果てしなく続くことになるのだろうか」
  この文章から25年の2021年の今、75歳になるアウンサン・スー・チーと少数民族を含むビルマ国民は、アウン・サンから引き継いだ「独立ビルマの夢」をかけ、今回はもう次の機会はないという思いで軍と最後の闘いをつづけているということになろうか。
  それを、彼・彼女らは「Spring Revolyution 春の革命」と命名した。

戦争まだ終わってない 

2021-05-11
元特攻隊、97歳の裏千家前家元
孫達は戦争から逃げる話ばかり考えている、逃げるのではなくどうしたら戦争を防げるのか考えてほしい。
特攻隊に志願、生き残った、裏千家の元家元、千玄室さんの御言葉。
「孫達は戦争から逃げる話ばかり考えている、逃げるのではなくどうしたら戦争を防げるのか考えてほしい。」

オバマ大統領の折鶴

2020-08-10

◎普天間基地移設問題

2021-04-12
*2006.5.1/ 日米両政府が普天間基地を名護市沿岸に移設で合意する。
*2006.6.5/ 村上ファンド代表村上世彰が証券取引法違反で逮捕される。
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【21th Century Chronicle 2006(h18)年】
◎普天間基地移設問題
*2006.5.1/ 日米両政府が普天間基地を名護市沿岸に移設で合意する。
 太平洋戦争末期、連合国軍が上陸し日本本土で戦われた地上戦は「沖縄戦」のみであり、約20万の沖縄住民のおよそ半数が犠牲になったとされる。日米戦争で最も悲惨な戦闘地域となった沖縄は、敗戦後日本本土の一部として連合国軍の占領下におかれた。やがて1952(s27)年のサンフランシスコ講和条約で、日本の主権回復は認められたが、沖縄だけは引き続きアメリカ軍の管理下に置かれ、沖縄各地にアメリカ軍基地・施設が建設された。
 ソ連との冷戦対立が始まり、さらに中華人民共和国(中共)が成立し、また、朝鮮戦争が起きると、沖縄はアジア太平洋地域の重要な防衛拠点となり、沖縄人民の家や土地が強制収容され、米軍基地の建設が進められ、沖縄には日本全体のアメリカ軍用施設の約70%が集中し、沖縄本島の約15%を占めることになった。
 沖縄は、1952年の日本主権回復後もアメリカの統治下におかれ、1972(s47)年にやっと沖縄県として日本に復帰した。しかし日本に返還後も、沖縄の基地としての重要性は変わらず、日米安全保障条約に基づいて、ほとんどの米軍基地が継続して沖縄に置かれ続けた。多くの基地があることで、さまざまな問題や事件が起こり、沖縄県民や日本政府は、米軍基地を可能なかぎり減らしていくことを、アメリカ政府に求めてきたが、基地の返還は遅々として進まなかった。
 なかでも宜野湾市の普天間基地は、基地の周りに住宅地が密集し世界でもっとも危険な飛行場と言われてきた。1995(h7)年には沖縄米兵少女暴行事件、2004(h16)年に沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件が起きるなどして、そのつど普天間基地の返還要求運動が高まった。
 日本政府と米国政府の間では、普天間基地の移設と返還の交渉が始められて、その間にもいろいろな移設候補地が検討され、工法と建設の是非を巡っても様々な議論がなされ続けた。同時期には、アメリカ軍が世界規模の軍再編を実施中であり、日米政府はこれに普天間移設を絡めて、基地の移設のみならず、沖縄本島に駐留する海兵隊の削減をも要望した。
 2006(h18)年5月、日米両政府の間で、普天間基地を名護市沿岸に移設することで合意が成立した。合意では、アメリカ軍普天間基地を名護市のキャンプ・シュワブ沿岸地域に移設し、2本の滑走路をV字型に配置することとし、沖縄の海兵隊員8,000人とその家族9,000人をグアムに移転し、日本側が6,800億円を負担することなどが盛り込まれた。
 しかし2009(h21)年、民主党を中心とした連立政権が成立、民主党代表鳩山由紀夫が内閣を組織すると、鳩山首相は、合意された移設案を白紙に戻し、「最低でも県外」と発言するなどして、移転構想を迷走させることになる。しかし、県外移設は不可能との結論に達し、再度辺野古のキャンプ・シュワブへの移設で決着がついた形となった。
 2006年から沖縄県知事を続ける仲井真弘多は、2013年、第2次安倍政権と交渉の上、沖縄振興策と引き換えに辺野古移設を承認したが、2014年に移設反対派の翁長雄志県知事が当選すると、翌2015年10月、前知事の辺野古埋め立て承認を取り消した。2018年翁長雄志知事の死去に伴う県知事選挙で就任した玉城デニー知事も、普天間飛行場移設反対と無条件返還を掲げ、辺野古移設工事が始められたものの、さまざまな反対運動を展開している。
 もともと人が住んでないところに基地を作ったのが、のちに周辺に住民が住み着いて危険な基地となったのだという説に対して、激戦地で住民が避難移動していたのが、戦争が終わって元々の土地に戻って来たのだとか、さまざまな政治的立場からの議論があるが、現状がそうなっているという事実がある限り、早急に解消する必要があるわけで、政治的なイデオロギー対立から、付近住民を危険にさらし続けるのは許されない。
(この年の出来事)
*2006.2.10/ イタリア トリノ冬季オリンピックが開幕する。
*2006.6.4/ 秋田児童連続殺害事件で女が逮捕される。
*2006.6.5/ 村上ファンド代表村上世彰が証券取引法違反で逮捕される。

「北緯17度線統一総選挙までの停戦ライン」と規定

2021-05-05
南北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府・アメリカの4代表が、ベトナム和平協定に調印する

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


『Get Back! 70's / 1973年(s48)』

○1月 パリ「南北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府・アメリカの4代表が、ベトナム和平協定に調印する」
 パリで行われたベトナム和平協定協議は、会議のテーブルを丸型にするか角型にするかで数ヶ月ももめるという難儀な会議であった。難航の末、北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で、やっと調印にまで漕ぎつけた。
 内容は多岐に渡るが、要諦は「1954年のベトナムに関するジュネーヴ協定によって承認されたベトナムの独立、主権、統一性、領土を尊重する」とされ、ベトナムの南北統一を前提にした主権の確立と外部勢力(つまりアメリカ)の介在を無くするということであった。つまり早い話が、米軍および関係者の完全撤退を円滑に進めるための時間稼ぎ的停戦協定にすぎなかった。
 「北緯17度線統一総選挙までの停戦ライン」と規定されただけで、事実上の北ベトナムの勢力圏は南に深く進入したままであった。やがて米軍が捕虜返還を受け、完全撤退を終えると、もはや北が協定を破って進撃するのを食い止める具体的なガードはなく、75年のサイゴン陥落を待つばかりの状勢となった。
75年のサイゴン陥落を待つばかりの状勢となった。
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