本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「国鉄三大ミステリー事件」

2020-11-04
下山事件
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1949年(s24)】
◎列車恐怖時代
*1949.7.5/ 下山定則国鉄総裁が、登庁の途中で行方不明となる。6日、常磐線の北千住-綾瀬間の線路上で轢死体となって発見される。(下山事件)
*1949.7.15/ 中央線の三鷹駅車庫から無人電車が暴走し、6人が即死する。(三鷹事件)
*1949.8.17/ 東北本線の金谷川-松川駅間で旅客列車が脱線転覆、3人が死亡する。(松川事件)
 この一ヵ月余りの間に、関東・東北の国鉄線で「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」という重大事故が相次いで発生した。これらは戦後の「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれ、一部容疑者は逮捕され有罪判決も下りたが、事件全貌の解明はほとんどなされなかった。
 7月5日、日本国有鉄道(国鉄)が発足し、その初代総裁に就任したばかりの下山定則が、出勤途中で失踪し、翌未明、国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間の線路上で轢死体として発見された。行方不明および死亡の理由は不明であり、自殺説・他殺説両方が飛び交ったが、事故原因は未解明のままに終わった。一部新聞が「鉄道マンは鉄道自殺をしない」と報じるなど、他殺事件説も強く示唆された。(下山事件)
 10日後の7月15日夜には、国鉄中央本線三鷹駅構内で、7両編成の無人電車が暴走、車止めを突き破って脱線転覆した。事故では、突っ込まれた商店街で一般人6名が即死、負傷者も20名出す大惨事となった。国労組合員で日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士竹内景助らが、ストライキから革命を引き起こすために行った共同謀議による犯行として逮捕された。裁判は二転三転する迷走を続け、最終的に竹内による単独犯行とし、死刑判決が下された。竹内は無実を訴え続けたが、のちに45歳で獄死する。(三鷹事件)
 8月17日未明、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続車両も脱線し、機関車の乗務員3人が死亡する事故が発生した。現場検証では、付近の線路を固定するボルト・ナットや犬釘が、緩められたり抜かれたりしているのが発見された。捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。
 元国鉄線路工の少年の自供から、東芝労組員や国労組合員の合計20名が逮捕された。一審判決では被告20人全員が有罪うち死刑5人という判決が下されたが、裁判が進むにつれ捜査機関による重要証拠隠蔽などが明らかになり、10年以上に及ぶ5回の裁判の結果、最終的に被告全員に無罪判決が確定した。(松川事件)
 戦後のGHQによる解放路線のため、共産党員や労働組合の活動が自由化されたが、それらが想定を超える過剰な運動になったため、いわゆる「逆コース」により締め付けが厳しくなっていた。またドッジライン施行による「安定恐慌」により、国鉄をはじめ大手企業では合理化のための大量解雇が頻発していた。そんな背景の下で、一部左翼活動は地下に潜り先鋭化する一方で、警察やGHQなどの特務機関が暗躍するなど、目に見えない地下の流れが渦巻いていた。そのような背景の下で連続して起こった奇怪な国鉄事故であった。
(この年の出来事)
*1949.4.4/ 北大西洋条約機構(NATO)が発足する。
*1949.5.23/ ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足、10.7にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に分断される。
*1949.5.31/ 行政機関職員定員法が公布され、28万人以上が整理対象となる。
*1949.7.4/ 国鉄が、定員法による人員整理で、第1次3万700人、第2次6万3000人に通告する。
*1949.10.1/ 毛沢東が北京で、中華人民共和国の成立し、ソ連が承認する。
*1949.11.24/ 銀座の金融業「光クラブ」経営の東大生が、資金繰りに行き詰まり青酸カリで自殺する。(光クラブ事件)

撃沈の経緯について

2020-11-04
戦艦大和の場合
35本‼️
これは米側から見た魚雷の打撃本数で、米側の戦闘詳報からの本数です。
あと左舷集中攻撃とよく言われてますが右舷にも多数被雷本数が計上されてます。
この理由は、実戦だからとしか言いようがありません。戦術として武蔵に左右均等に魚雷を当てて20本以上必要になった。ゆえに左舷集中攻撃と言われますが、実戦は、思うような左舷集中が出来なかった。
これは攻撃側の米側も苦戦した証拠ですし35本を受けるまで頑張った大和乗組員の戦いを顕彰すべきだと思います。

民主国家ということ

2020-11-02
教育制度改革
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1947年(s22)】
◎日本国憲法施行と民主的法体系の整備
*1947.3.31/ 「教育基本法」・「学校教育法」が公布される。
*1947.4.7/ 「労働基準法」が公布される。
*1947.4.14/ 「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」が公布される。(独禁法)
*1947.4.17/ 地方自治法が公布される。
*1947.5.3/ 日本国憲法が施行される。
*1947.10.21/ 国家公務員法公布。国家公務員の団体行動などを制約する。
*1947.10.26/ 改正刑法が公布される。不敬罪・姦通罪を廃止する。
*1947.12.17/ 警察法が公布される。警察の地方分権化と民主化をうたう。
*1947.12.22/ 民法が改正公布される。
*1947.4.17/ 地方自治法が公布される。
*1947.5.3/ 日本国憲法が施行される。
*1947.10.21/ 国家公務員法公布。国家公務員の団体行動などを制約する。
*1947.10.26/ 改正刑法が公布される。不敬罪・姦通罪を廃止する。
*1947.12.17/ 警察法が公布される。警察の地方分権化と民主化をうたう。
*1947.12.22/ 民法が改正公布される。
 1947(昭22)年3月31日、新憲法に併せて新教育法が公布された。教育基本法および学校教育法は、軍国主義の教育の象徴とされる旧教育勅語を廃し、新しい憲法にそぐう民主教育の根幹を規定した。学校教育法では、旧来の一貫しない複線型学校体系を整備して、いわゆる「6-3-3-4制」を基本とする単線型学校体系に改められた。従来と区別するために「新制中学・新制高校」という言葉がよくつかわれた。
 就学前の子供の頃、父親が「しんせい」という言葉を使うたびに、当時父が吸っていたタバコ「しんせい」のことだと思い込んでいた。たしかに、この時期に発売されて新生日本を強く意識した命名ではあったのだろうが。ちなみに昭和9年生まれの兄は、ちょうどこの時期の新制中学一期生だと言っていた。学校設備などが追い付かず、当初は小学校内に併設された教室で学んだという。
 1947(昭22)年4月7日、「労働基準法」が公布された。「労働基準法」は、この前後に制定された「労働関係調整法」と「労働組合法」とともに「労働三法」と呼ばれる。前の二法が組合団体活動を定めたのに対し、労働基準法は、個別の労働者の保護基準を規定したものとされる。
 1947(昭22)年4月14日、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独禁法)」が公布された。戦前の軍国主義に寄与した財閥解体などの施策に関連して、わが国でも独占禁止法が制定されることになった。一概に独禁法と言っても、それぞれの国の経済事情に対応して、制定される経緯が異なり、アメリカでは、M&Aなど企業買収や合併などでの企業集中を排除する目的に沿って形成されてきたが、日本では、市場競争の競争の維持など、消費者の利益保護を目的に発展してきた。産業構造の進展にともなって、その規制は、領域ごとに緩和されたり拡張されたりと変化を繰り返す。
 この1947(昭22)年には、ほかにも多くの新法が制定されたが、それらは1947(昭22)年5月3日から施行される「日本国憲法」との整合性を保つために必然とされた。日本国憲法は、大日本帝国憲法の「改正」という形で制定された。同じく、刑法・民法も旧法の改正となっているが、当然ながらその条文は大幅に変更追加されたものになった。「改正刑法」では、大逆罪・不敬罪などが削除され、「改正民法」では、家父長制的な家族制度を基にした「家制度」が廃止されるなど、民主憲法に対応して改正された。

戦後の旗印

2020-11-01
日本国という時代が始まりました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1946年(s21)】
◎日本国憲法が公布
*1946.2.3/ マッカーサーがGHQ民生局に、日本国憲法の草案作成を指示する。
*1946.2.13/ 憲法改正要綱(松本試案)が提出されるも、GHQ民生局のホイットニー局長はこれを拒否し、GHQ案を手交する。22日、閣議はこれを受諾する。
*1946.11.3/ 日本国憲法が公布される。(翌1947.5.3 施行)
 日本国憲法は、1946(昭21)年11月3日に日本国憲法として公布され、その6ヵ月後の翌年1947(昭22)年5月3日に施行された。1.「国民主権」の原則に基づいた象徴天皇制、2.個人の尊厳を基礎に「基本的人権の尊重」、3.戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認という「平和主義」は、日本国憲法を特徴づける三大要素と言われる。
 1945(昭20)年、ポツダム宣言を受諾し、そこで要求された民主化体制を実現するためには、事実上、憲法の改正が必須とされた。そこで、占領中のGHQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法の改正手続に従うという形で公布施行された。
 昨今の憲法改正論議は、その内容が現状にそぐわなくなったので改正すべしというのが一つ、もう一つは、その制定過程がGHQに押し付けられたものだと言うのが根拠となる。これらが翻然と混じり合って論議されているが、今は内容については触れないで、その制定の経緯を振り返ってみる。
 まずマッカーサーの指示で、実質的には幣原内閣が憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。一方で、国民の間にも憲法問題への関心が高まり、政党や知識人などから多数な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは旧憲法に手を加えたものに過ぎず、そうこうする内に憲法問題調査委員会の試案が新聞にスクープされたが、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。
 かくして、マッカーサーの指示により、GHQ民生局は独自の憲法草案の起草作業を始めた。GHQは、日本の民間から発表された草案の中でも、象徴天皇制を掲げた憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目して、いわゆる「GHQ憲法草案」の作成作業がはじめられた。マッカーサーは、「マッカーサー・ノート」とされる基本三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示し、GHQ憲法草案(マッカーサー草案)が練り上げられた。
 GHQは起草作業を急ぐ一方、日本政府に対して政府案の提出を要求し、松本委員会より「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された。しかしその政府案は、民生局長ホイットニーにより保守的すぎると拒否され、逆にGHQ憲法草案が提示され、それを基に改正案を起草するように指示された。政府はそれを受け入れ、改定作業を進め「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体の条文化としたものが「憲法改正草案」として公表された。
 マッカーサーがGHQ憲法草案を提示し、それに沿った日本政府による「憲法改正草案」を急がせた背景には、「極東委員会」の存在があったとされる。極東委員会は、日本を連合国が占領するに当たり、日本を管理するため設けられた政策機関で、ソ連・アメリカ・イギリスを中心に11ヵ国の戦勝国代表によって構成される機関で、GHQ行政の上位に位置する機関であり、日本国憲法の制定に当たっては委員会の承認を必要とするとされた。
 日本政府が情勢を把握せずに保守的な改正案を出しているうちに、現実の日本行政にはうとい極東委員会の判断にゆだねると「天皇制の廃止」を要求される懸念があった。戦後日本の統治に当たって、天皇制の維持は有効であると考えたマッカーサーは、極東委員会の介入を極力排除しようとし、「象徴天皇制」のもとに天皇を残すために、本国米国政府も驚く如くに新憲法案を支持する声明を出し、新憲法の公布施行にこぎつけた。
 押し付け憲法云々より以前に、日本国憲法の制定には、国の外からと内からの双方の力が働いていたと考えるべきであろう。もちろん連合国最高司令官のもとで、大日本帝国憲法の決定的な変革が求められたことがその一つ。一方で、日本の真の民主化を希求する勢力が、旧来の天皇主権から人民主権を勝ち得ようとし、その二つの流れの狭間であみ出されたのが「象徴天皇」であるとするべきではなかろうか。
 

最悪のシナリオの幕が上がりました。

2020-11-01
将来を見据えないショーの序章
Facebook佐々木信雄さん投稿
【20th Century Chronicle 1943年(s18)】
◎学徒動員
*1943.6.25/ 閣議が学徒戦時動員体制確立要綱を決定。本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が法制化される。
*1943.10.21/ 明治神宮外苑陸上競技場で、出陣学徒壮行会が開催される。
 1943(昭18)年6月25日、「学徒動員」体制が法制化され、本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が課せられることになった。戦局悪化による兵力不足のため、朝鮮徴兵・台湾徴兵と並んで、それまで徴兵猶予されていた高等教育機関在籍の学生を在学途中で徴兵し出征させた。従来、兵役法などの規定により高等教育在学の学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。
 1943(昭18)年10月1日、東條内閣は在学徴集延期臨時特例を公布し、これにより理工系と教員養成系を除く文科系の在学生の徴兵猶予は撤廃された。この特例により、10月と11月に徴兵検査を実施し合格者を12月に入隊させることとした。「学徒出陣」によって入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、幹部候補生・見習士官などとして、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。これらの最前線の下級指揮官は、最も戦死の確率が高い立場である。
 この第1回学徒兵入隊を前にした1943(昭18)年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場で、文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集められた前で、東条英機首相直々に訓示を行った。同様の出陣学徒壮行会は各地でも開かれたが、翌年の第2回出陣以降は戦況悪化で壮行会さえ行われなくなった。翌1944(昭19)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されている。
 死亡した学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947(昭22)年東京大学の戦没学徒兵の手記として『はるかなる山河に』、続く1949(昭24)年にはBC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒兵の遺稿集として『きけ わだつみのこえ』が出版された。これらは、時の政府により学業を中断させられ戦場に出征し、軍隊の不条理や死の恐怖と直面した学徒兵の苦悩や思索が込められており、戦後に生き延びた日本人に強いメッセージを与えた。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.3.2/ ニューギニア戦造園の輸送船団が、ダンピール海峡で米軍機の攻撃により全滅する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.10.21/ 代議士中野正剛が倒閣容疑で検挙され、釈放後、割腹自殺する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
TOPへ戻る