本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

先輩、母校の後輩と語る

2020-12-13
三島由紀夫、東大にて、全共闘と対話する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

学生運動の迷走

2020-12-09
赤軍から連合赤軍へ
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1969年(s44)】
◎大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派が逮捕される
*1969.11.5/ 山梨県の大菩薩峠で、武闘訓練中の赤軍派53人が逮捕される。
 安田講堂解放などで拠点を奪われた過激派一部は、テロや軍事武装路線に活路を見出し地下に潜行した。その一派「共産同赤軍派」は、武装蜂起への訓練を、大菩薩峠周辺の山中で行っていたところ、察知した警察によって一括逮捕された。旧世代には、中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の、ニヒルな剣士 机竜之助を思い起こさせる土地での逮捕劇であった。
 事後捜査での最高幹部議長塩見孝也ら重要メンバー逮捕などを含め、致命的な大打撃を受けた赤軍派は、そののち「京浜安保共闘」と共闘を組み「連合赤軍」と名乗る。ここからアジトを転々としながら、冬の山間を移動する過程で、「山岳ベース事件」での悲惨な同志リンチ殺害事件を起こし、そこから逃亡した一部が銃をもって企業の研修用の山荘に立てこもり、「浅間山荘事件」を引き起こす。
(この年の出来事)
*1969.5.26/ 東名高速道路が全線開通する。
*1969.9.5/ 日比谷公会堂で、全国全共闘連合の結成大会が開かれる。
*1969.10.10/ 巨人軍の金田正一投手が通算400勝を達成する。
*1969.10.21/ 国際反戦デーで、社会党・共産党・総評の統一行動が全国で行われる。反日共系各派は、東京・大阪などで、烈しいゲリラ活動を展開、約1,500名が逮捕される。
*1969.10.29/ 発癌性の疑いで、厚生省は合成甘味料チクロの使用を禁止する。

ここでも始まりました。

2020-12-09
陸軍は陸地で戦います。そのためには上陸作戦が必要です。
昭和16年12月8日の本日、陸軍、馬来半島上陸作戰開始。
馬来作戰(日本側作戰名「E作戰」)は、大東亞戰爭序盤における日本軍の英吉利領馬来および新嘉坡への進攻作戰。
日本の對英米開戰後の最初の作戰である。
世界史的には、本攻撃によって第二次欧州大戰は欧羅巴・北阿弗利加のみならず亜細亜・太平洋を含む地球規模の戰爭へと拡大したとされる。
1941年12月8日に馬来半島北端に奇襲上陸した日本軍は、英吉利軍と戰斗を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。
これは世界の戰史上まれに見る快進撃であった。
作戰は大本營の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戰は順調なスタートを切った。
「背景」
開戰時における日本軍の戰略目標は、石油や天然瓦斯、護謨などの豊富な天然資源を持つ阿蘭陀領東印度(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかる英吉利の植民地である馬来半島および新嘉坡を攻略する必要があった。
新嘉坡は新造戰艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを基幹とし、亜細亜太平洋地域と印度洋一帯を確保せんとした英吉利東洋艦隊の根拠地であり、また英吉利の東南亜細亜における植民地支配の中心拠点として、欧羅巴や阿弗利加戰線において英吉利の抵抗に手を焼く独逸も、英吉利の資源補給線である印度洋を抑える意味などから日本軍による攻略を切望するところであった。
長年英吉利の過酷な植民地支配下に置かれていた新嘉坡は、日英同盟の破棄以降、英吉利軍によって防御設備の強化が進められ、「東洋のジブラルタル」とも称されていた。
海に面した南側には戰艦の主砲並みの15インチ(38糎)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群、そして戰斗機群が構築され難攻不落の要塞と言われていた。
北側のジョホール海峡側および同じく植民地である馬来半島における英吉利軍の防備は手薄であったが、廣大な馬来半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。
上陸可能地点である、泰領内のシンゴラ(ソンクラ)から新嘉坡までは1,100キロの距離があり、馬来半島を縦断する道路は一本道で、両側には鬱蒼たるジャングルと護謨林が廣がっていた。
さらに半島には大小250本の河川が流れ、南に撤退する英吉利軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。
その間に英吉利軍は新嘉坡北側の防備を強化することができると考えていた。
日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。
大本營は、「(馬来半島内の英吉利軍を放逐しつつ)馬来半島を70日以内で縦断して新嘉坡を攻略する」という目標を立て、作戰準備を開始した。
「参加兵力」
―日本軍―
第25軍 - 司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将、参謀副長:馬奈木敬信少将、高級参謀:池谷半二郎大佐、作戰主任参謀:辻政信中佐
第5師團 - 師團長:松井太久郎中将、4個歩兵聯隊(歩兵第11、第21、第41、第42聯隊)、捜索第5聯隊、工兵第5聯隊、砲兵第5聯隊基幹
近衛師團 - 師團長:西村琢磨中将、3個歩兵聯隊(近衛歩兵第3、第4聯隊、第5聯隊)、近衛捜索聯隊基幹
第18師團 - 師團長:牟田口廉也中将、3個歩兵聯隊(歩兵第124聯隊(川口支隊)欠)、歩兵第56聯隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55聯隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114聯隊と師團主力は1/23シンゴラ着
第3戰車團 – 戰車第1、第2、第6、第14聯隊
独立工兵第4、第15、第23聯隊
独立山砲兵第3聯隊、野戰重砲兵第3、第18聯隊
第3飛行集團 - 集團長:菅原道大中将、作戰機459機、豫備153機、作戰後半には一部を残し蘭印方面へ転用
南遣艦隊 - 鳥海以下重巡5隻基幹、司令長官:小沢治三郎海軍中将
第22航空戰隊 - 司令官:松永貞市少将、作戰機158機、豫備29機
第56師團(馬来作戰には最終的に参加せず緬甸戰線へ転進)
大本營は南方作戰の中でも馬来を最重要視し精鋭部隊をこれに當てた。
第5師團(廣島)は建軍以来の精鋭師團であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に改編された虎の子の機械化師團であった。
近衛師團(東京)は宮城警護を任務としており日露戰爭以来一部の部隊を除き実戰経験がないという不安はあったが、やはり数少ない機械化師團の1つであり本作戰には不可欠と考えられた。
第18師團(久留米)は馬匹編成であり機動力では劣っていたが、精鋭師團の一つとして期待されていた。
また、英吉利軍は橋梁を破壊して遅滞を図ると豫想されたため、橋梁修理のために独立工兵聯隊が増強された。
参謀陣にも鈴木中将、辻中佐ら大本營の逸材が参画し、資材も最良のものが割り當てられた。
1941年3月に第5師團は馬来戰を想定して佐世保で大演習を行い、ジャングルや護謨林での戰斗の演習も進めていた。
さらに辻中佐らは6月から海南島で作戰研究を行っていた。
海南島一周は1,000キロで馬来作戰の進撃路の長さに匹敵し、熱帯性気候や一本道の地形も共通する。
日本軍はこうした万全の準備をもって作戰に臨んだのである。
―英吉利軍―
馬来軍(司令官アーサー・パーシヴァル中将)
英吉利領印度帝國軍(英印軍)
第3軍團(Indian III Corps) - 第11師團第6、第15旅團(ジットラ)、第9師團第8旅團(コタバル)、第9師團第22旅團(クアンタン)、第28旅團(軍團豫備、イポー)
第12旅團(軍豫備、ポートディクソン)
第45旅團(1月上旬新嘉坡着)、第53旅團(1月中旬同着)、第44旅團(1/25同着)
濠太剌利軍
第8師團(Australian 8th Division) - 第22旅團(メルシン)、第27旅團(クルアン)
英吉利軍
第18師團(British 18th Infantry Division) - 第53旅團(1月中旬新嘉坡着)、第54、第55旅團(1/28同着)
新嘉坡要塞守備隊
馬来人部隊 - 第1、第2旅團(新嘉坡)
東洋艦隊
Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) - 戰艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戰艦レパルス基幹
空軍(246機)
英吉利軍は國際情勢の悪化を受けて、東南亜細亜における一大拠点(植民地)である馬来半島及び新嘉坡方面の兵力増強を進めており、開戰時の兵力は英吉利兵19,600、印度兵37,000、濠太剌利兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。
兵力数は日本軍の開戰時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戰力的には劣っていた。
軍の中核となるべき英吉利第18師團はいまだ輸送途上であった。
また、欧羅巴戰線および阿弗利加戰線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地の英吉利の植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。
特に多数を占めた印度兵たちは、生活の糧を得るために英吉利軍に入隊したものの、祖國を植民地支配し抑圧する英吉利人のために、祖國から遠く離れた馬来の地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。
空軍については現地司令部から本國へ幾度も増強の要請がなされたが、独逸軍との戰いに手一杯、かつ劣勢であった本國はこれに對応できなかったため、その数は十分とはいえず、さらにその中心はホーカー・ハリケーン等の舊式機とならざるを得なかった。
それでも日本軍に對する研究が不十分な英吉利空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戰爭だ」と人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたという。
しかし、英吉利空軍は支那事變で実戰経験を積んだ零戰や隼を相手に完全に圧倒されることとなった。
―作戰開始時刻―
大本營は馬来上陸と亜米利加の属領である布哇に對する真珠灣攻撃との関係に考慮を要した。
陸軍は馬来上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対條件とし、海軍も真珠灣での奇襲に期待をかけていた。
しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
馬来と布哇とでは約6時間の時差がある。
双方を両立させるのが馬来の深夜、布哇の早朝という作戰開始のタイミングであった。
1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師團佗美支隊が馬来半島北端のコタバルへ上陸作戰を開始した。
亜米利加領布哇の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、いわゆる大東亞戰爭はこの時間に開始された。
この上陸作戰自體は、駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戰後の宣戰布告となってしまった對米宣戰布告豫定時間より前に開始されており、開戰前に宣戰布告を行う豫定であった對米開戰とは異なり、日本軍が宣戰布告無しで對英開戰することは豫定通りであった。
この時の日本軍の開戰日の暗號は「ヒノデハヤマガタ」である。
なお開戰直前の12月7日午後には、馬来作戰に参加する上陸部隊を乗せた輸送船團の上空護衛を行っていた日本軍の97式戰斗機が、哨戒中の英吉利海軍のPBYカタリナを撃墜した。
この撃墜により英吉利軍基地に對する日本海軍艦艇の来襲の報告がなされなかったことから、その後の日本陸軍の上陸作戰を容易にした。
なおこれは同戰爭における最初の聯合國軍の損失であった。
「経過」
―コタバル強襲上陸―
馬来半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戰が可能な海浜は英吉利領東北端のコタ・バルか、数少ない亜細亜における独立國である泰王國領内のみであった。
英吉利軍はコタバルに1個旅團を配置しトーチカ陣地を構築していた。
コタバルへの上陸作戰の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、馬来作戰全體の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。
第18師團歩兵第56聯隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戰隊)に分乗し、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。
波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。
午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅團6,000名との交戰が始まった。
第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須聯隊長は豫想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。
第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き當たり中村大隊長は上陸と同時に戰死した。
英吉利空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、大東亞戰爭に於ける被撃沈第1號となった。
綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船團は一時退避を余儀なくされた。
佗美支隊は苦戰しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。
9日昼にコタバル市内を占領した。
 

糧てませんでした。

2020-12-08

 

 · 
「千人針」
本日は日本が太平洋戦争を開始した日です。
祖母は長男が兵隊に取られた時、新宿の伊勢丹付近で千人針を募ったそうです。五銭硬貨は死線を超える、十銭硬貨は苦線を超えるという縁起で縫い付けたそうです。
「出征おめでとう」「○○君ばんざい」
祖母は送り出す声々を聞きながら、「一生懸命育てて死にに行かせるのか、こんなに欺瞞に満ちた送別は無かった」と末っ子の父に語ったそうです。
20年にはいわゆる根こそぎ動員で十代の父も召集寸前の終戦でした。
長男は戦死、次男の叔父は満州で終戦後、シベリア送りに遭いながらも奇跡的に生還しました。

もう一枚

2020-12-08
1941年12月8日です。
Facebook永井由紀夫さんの投稿
12月8日
■1941年(昭和16年) 太平洋戦争始まる
12月8日(現地時間7日)、
ハワイ北方425キロに達した機動部隊から計350機の航空部隊が発進し、
オアフ島の真珠湾に停泊していた米艦隊を攻撃。
これにより、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃による米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没したほか、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊された。
人的被害も戦死・行方不明者が2300人を超えた。
ただ、日本側が主要攻撃目標としていた米空母部隊はハワイにおらず、米国の海軍戦力が大きく低下することはなかった。
TOPへ戻る