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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

昭和天皇の時代

2021-04-14

東久邇宮盛厚殿下(1917年5月6日~1969年2月1日)

2021-04-14
東久邇宮盛厚殿下(1917年5月6日~1969年2月1日)は、
第2次世界大戦直後に総理大臣を務められた元皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)王の長子としてお生まれになりました。
陸軍士官学校を卒業されてからは陸軍将校として勤務され、昭和18年、26歳の時に昭和天皇の長女である照宮成子内親王とご結婚されました。
昭和22年の51名の皇族離脱の際に夫人・長子共に皇籍を離れ民間人となり、東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)と名乗られます。
成子夫人と死別された後には、寺尾佳子様と再婚されました。
下記の写真は、昭和天皇のご一家と共に映られた、殿下とそのご家族の貴重なお写真です。

昭和天皇と香淳皇后の第3皇女子

2021-03-18
Facebook永井由紀夫さん曰く、昭和21年6月23日、上野駅から那須にご出発
昭和21年6月23日、上野駅から那須にご出発の皇女。

左から、清宮貴子内親王 7才
島津 貴子さん 1939年〈昭和14年〉3月2日 - )は、日本の元皇族。島津久永の妻。旧名は、清宮 貴子内親王 お印は橘。勲等は勲一等。昭和天皇と香淳皇后の第5皇女子(第7子)。

順宮厚子内親王 15才
 池田 厚子さん(1931年〈昭和6年〉3月7日 - )は、日本の元皇族。神社本庁総裁。旧名、順宮厚子内親王。諱は厚子、御称号は順宮。お印は菊桜。旧岡山藩主池田家第16代当主池田隆政の妻。伊勢神宮祭主(1988年 - 2017年)勲等は勲一等。昭和天皇と香淳皇后の第4皇女子(第4子)

孝宮和子内親王 17才
 鷹司 和子さん(1929年〈昭和4年〉9月30日 - 1989年〈平成元年〉5月26日)は、日本の元皇族。鷹司平通の妻。元神宮祭主。勲等は勲一等。旧名、孝宮和子内親王。諱は和子、御称号は孝宮。お印は白菊。昭和天皇と香淳皇后の第3皇女子

お三方とも
天皇陛下と秋篠宮文仁親王殿下は甥、黒田清子さんは姪

天皇ご一家

2021-04-14
昭和帝の御代(左から 東久邇宮成子、島津貴子、上皇陛下、鷹司和子、池田厚子)
左から 池田厚子、鷹司和子、島津貴子、昭和天皇、上皇陛下、皇淳皇后、東久邇宮盛厚、東久邇宮成子  昭和19年に撮影
この写真の中で昭和天皇の男系子孫である上皇陛下以外で唯一写っいる男性が 東久邇宮盛厚王だ。

シベリア出兵

2021-03-14
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
Facebook佐々木信雄さん曰く
◎シベリア出兵
*1918.5.26/ チェリャビンスクでチェコ軍団が反乱。反革命勢力や列強の後押しで混乱する。
*1918.8.2/ 日本軍、大挙シベリア出兵。チェコ軍支援の名目で、背景には満州支配の野心。 
 1918年から1922年にかけて、英・仏・米・日本など帝国主義列強は、ロシア革命に対する軍事干渉としてロシアのシベリアに出兵した。1918年3月英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。東シベリアのチェリャビンスクで包囲されたチェコ軍団の救出がその名目だった。
 レーニンの指導するボリシェヴィキ革命は、資本主義体制・議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する過激派として恐れられており、第1次世界大戦の最中に、連合国のロシアでボリシェヴィキに指導された革命が起こると、資本主義列強はロシアの反革命保守勢力(白軍)を支援して、革命政権の打倒しようと考えた。
 オーストリア帝国の一部で同盟軍として動員されたチェコ兵は、連合国側にチェコの独立を持ち掛けられて寝返ったところ、些細なことから革命軍と戦闘が始まり、革命軍に包囲されてしまった。これを救出するというのが連合国側の名目だが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことにあった。
 しかし、オムスクの反革命白軍コルチャーク軍が1919年3月に大敗すると、反革命支援の目的が完全に潰え、シベリア出兵の意味はなくなったため、英仏の干渉軍は撤退、アメリカも続いて撤退する。しかし、最大7万以上を派兵した日本軍は、1922年までシベリアに留まることになった。
 日本軍は事後処理のためとして駐留を続けているとき、1920年2月に「ニコライエフスク事件」の悲劇が発生した。これは日本では尼港事件とも呼ばれ、現地の共産パルチザンが、アムール川の河口のニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊および日本人居留民約700名、その他現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した事件である。
 日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。時の原敬内閣は、出兵目的を居留民保護とロシア過激派の勢力伸張の防止に変更し、駐兵を継続しようとする。しかし、そもそも戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃しており、日本国内でも批判が高まった。
 アメリカなど諸外国からの日本への不信感も高まり、1922(t9)年10月に、やっと日本も撤兵することとなった。日本のシベリア出兵は、延べ3,500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、具体的な成果のまったくないまま終結した。撤兵を決定した加藤高明首相は後日、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
(この年の出来事) 
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第1次世界大戦が終わる。
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