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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

『Get Back! 60’s / 1969年(s44)』

2021-04-28
Facebook 佐々木信雄さん曰く
○1月「東大安田砦、遂に落城」
『Get Back! 60’s / 1969年(s44)』
#そのころの自分# 大学二年生になった年だが、昨年末から封鎖が続いているため、ほとんど学校に行くことがない。京都の街をあてもなく徘徊することが多かった。この時期から写真はほとんどない。須磨離宮公園で撮ったものが出てきたが、男女2人づつで行ったときのもの。このとき紹介された彼女で、数回お付き合いしたかと思う。
 鬱からの恢復過程で佛教に関心を持つ。絵の具をいじったり、俳句をひねってみたりしたが、才の無いのが確認できただけ。やがて、文学にのめりこむ様になっていった。
○1月「東大安田砦、遂に落城」
 東大安田講堂事件の攻防は、京都の実家でテレビで観ていた。安田講堂バリケードへの機動隊導入と封鎖解除は、70年安保に向けて燃え上がった反体制運動の決定的な「転回点」となった。
 学生および労働者などの活動家は、拠点となる大学に集結していた。東大のバリケードにも、東大全共闘のみならず、全国各地から各セクトの下に集まっていた。最高学府東大の安田講堂は、パリ五月革命のカルチエ・ラタンと同じように、闘争活動の「象徴」となっていたわけだ。
 この時の封鎖中の東大全共闘の集会に、当時、盾の会などを作って政治的言動が目立ちだしていた三島由紀夫が単独で乗り込んだ。当然ながら議論は噛み合うべくもないが、両者間に奇妙な共感が生れるかと思われた瞬間もあった。(注:すでに開放された5月で、封鎖中というのは勘違い)
 やがてその安田講堂に機動隊が導入され、決定的な落城の模様は逐一テレビなどで放映された。それぞれの立場にあったものからも、「これで終った」と思える事件だったのである。その後、各地の大学拠点にも次々と機動隊が導入され、開放されていった。
 そして闘争する学生たちは、すべての「城」から追出された「敗残兵」として各地に散らばるしかなかった。その後は、地下にもぐり、過激暴力化し、孤立化し、内部分裂し、そして連合赤軍の顛末に見られるような自滅の末路をたどったのである。
○4月「連続ピストル射殺犯人 永山則夫、半年ぶり逮捕」
 永山則夫連続射殺事件は、1968年10月から11月にかけての一ヶ月たらずの短期間に、東京ほかの4都市で連続して発生した拳銃による殺人事件である。そのあと東京に潜伏し、翌4月7日、別の侵入事件を起こし逮捕されるまで、半年にわたって逃げていたことになる。
 裁判では、犯行時19歳の「少年」であったこと、貧窮の境遇での生い立ちの過酷さ、獄中での改心や文筆活動に基づく情状配慮など、その判決は死刑・無期・死刑と二転三転する。最高裁は二審の無期判決を破棄、差し戻す際に「永山基準」なるものを示した。
 死刑判決の適用に際して考慮すべき基準を示したものであるが、その基準は九項目に及び、しかも具体的な数値(たとえば殺人数等)は示されていない。しかし殺人の数が複数でないこと、犯行時少年であったことなどが、死刑を回避する理由として挙げられ、そのさいに永山基準が持ち出されることが多い。
 死刑廃止論や少年犯罪者への配慮などの議論で、いずれの立場からも永山基準に言及されることも多い。永山基準が実質的な死刑への判例とみなされている所以である。なお、死刑執行反対の多くの支援者にもかかわらず、1997年8月、永山は死刑執行された。
○4月「シームレスのパンティストッキング、急増」
 パンストは、ミニの普及に完全に連動して普及した。しかしミニでなくても、その下は必ずパンストであることの不思議に気づく人は少ない。逆は必ずしも真ならず?(笑)
○6月「新宿西口フォーク集会 七千人が集まる」
 60年代半ばから新宿副都心計画が施行され、駅西口にも広大な立体ターミナルが造られた。整備されてすぐの新宿西口地下広場で、'69年6月28日「反戦フォークゲリラ事件」なるものが起った。プロアマ入り交じったフォークソング・シンガーが、反戦歌などでベトナム戦争反対を訴える集会で、その数万人にいたったとも言われる。
 自然発生的に集まったわけでは当然ない。反戦を訴える各団体だけではなく、プロのフォークシンガーの事務所やプロダクションも、この機会を利用しようとしたとも言われる。そもそもが烏合の衆、本格的に機動隊が動員されると跡形もなく排除され、「広場」は「通路(集会は不法占拠となる)」へと名称変更された。
○7月「アポロ11号 月面着陸、偉大な第一歩」
 1961年ソ連ガガーリンの宇宙初飛行以降、アメリカは宇宙技術さらに軍事ミサイル技術に関して、ソ連優勢の状況に危機感を感じていた。同年就任したJFケネディ大統領は、1960年代中にアメリカ人を月に到達させるというアポロ計画を発表した。
 人類初の月面着陸は、当時の宇宙開発競争の一つのゴールであった。つまりケネディは一発逆転を宣言したのである。そしてこの年、アポロ11号は無事に月面着陸し、ニール・アームストロング船長が月面に降り立つ姿は、衛星中継により華々しく全世界に中継された。
 60年代を通じて、アメリカは軍事・政治・経済でソ連の急追に押しまくられていた。一方でベトナム戦争をかかえ、国内では反戦運動や黒人暴動の嵐に曝されていた。アポロの成功は、そのようなアメリカ人の憂鬱な心情に一条の光をもたらせた出来事としても重要であろう。
○8月「思えば遠い日のことだ ウッドストック」
 ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックなどにゆかりのニューヨーク州アルスター郡ウッドストックで、4人の若者が野外コンサートを企画したが、適地が見つからず結果的にはサリバン郡ベセルに場所を移して開かれた。この野外コンサートには、数多くの著名フォーク歌手やロック・グループなどが出演したため、3日間通算40万人の若者が押し寄せたいう。反戦、ヒッピー、ドラッグ、ロック、フォークなど、様々な若者による60年代カウンターカルチャーを代表するイベントとなった。
 たび重なる雨に見舞われ、最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが登場したのは最終日翌日の明け方であったという。多くの人が帰ってしまったまばらな観衆の前で、ジミの演奏は圧巻であった。合衆国国家を反戦歌として演奏してしまうジミの演奏を下記にリンクした。なおこのコンサートの模様は、名監督マーティン・スコセッシ編集のもとで公開されDVD化されている。
*Jimi Hendrix- Star Spangled Banner at Woodstock
○11月「大菩薩峠で赤軍派逮捕 軍事訓練中だった」
 安田講堂解放などで拠点を奪われた過激派一部は、テロや軍事武装路線に活路を見出し地下に潜行した。
 その一派「赤軍派」は、武装蜂起への訓練を、大菩薩峠周辺の山中で行っていたところ、察知した警察によって一括逮捕された。旧世代には、中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の、ニヒルな剣士 机竜之助を思い起こさせる土地での逮捕劇であった。
 事後捜査での最高幹部議長 塩見孝也ら重要メンバー逮捕などを含め、致命的な大打撃を受けた赤軍派は、そののち京浜安保共闘と共闘を組み「連合赤軍」と名乗る。
 さらに「山岳ベース事件」での悲惨な同志リンチ殺害事件や、「浅間山荘事件」での末路に至る契機となる事件であった。
○11月「日米共同声明 「沖縄の72年復帰」を発表」
 訪米した佐藤栄作首相は、ワシントンでニクソン米大統領と会談、その共同声明で、72年に沖縄の返還されることがが発表された。返還までに多くの行政処理が必要であったが、米軍基地問題をはじめ、返還後もいままで残された課題も多く糸を引いている。
 写真は返還前の沖縄の街路の様子。車が右側通行しているのが分る。どうやって左側通行に切り替えたんでしょうね(笑)
○1969年(s44) TV人気番組
「ゲバゲバ90分」(NTV)
「サインはV」(TBS)
「柔道一直線」(TBS)
「8時だよ!全員集合」(TVS)
「コント55号の裏番組をぶっとばせ」(NTV)
「プリズナーNo.6」(NHK)
「タイガーマスク」(NTV)
「忍者カムイ伝」(フジ)

1960年

2021-04-18
○12月「池田内閣 所得倍増計画決定」
  安保強行突破の責任をとって岸内閣は総辞職、代って内閣を組織した池田隼人首相は、政治色を払拭するため「所得倍増計画」を発表した。
10年間で国民所得を倍増させるというものであったが、実際には6年で達成され、10年後には4倍に成っていた。「貧乏人は麦飯を食え」とか「私はウソを申しません」とか、何かと話題を呼ぶ発言の多い首相であった。 
Facebook佐々木信雄さん曰く

1960年

2021-04-18
○10月「浅沼社会党委員長 暗殺される」
  日比谷公会堂で行われた党首演説会の壇上で、野党第一党の社会党党首 浅沼委員長が、18歳の右翼少年に刺殺されるという事件が起った。
これは戦後最大の政治テロと言われ、公衆の面前で刺されるショッキングなシーンは、テレビの映像ニュースでも何度も流された。 
Facebook佐々木信雄さん曰く

1960年

2021-04-18
○6月「安保反対全学連デモ 国会構内に突入」「樺美智子さん デモの最中に死亡」
  6月15日 安保阻止最大のデモが国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。
この数日後、安保條約は参議院の議決のないまま自然成立した。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「後楽園球場には平和な民衆が五万と居る」とつぶやいたとか。
Facebook佐々木信雄さん曰く

戦艦USSミズーリ号(BB63)の初代艦長ウイリアム M.キャラハン大佐

2021-04-16
1945年4月11日の日本軍の攻撃で特攻機に右舷を体当たりされたが、攻撃した日本軍のパイロットを名誉ある水葬にしたことで知られている。

Facebook 鈴木真人さん曰く



戦艦USSミズーリ号(BB63)の初代艦長ウイリアム M.キャラハン大佐は、1945年4月11日の日本軍の攻撃で特攻機に右舷を体当たりされたが、攻撃した日本軍のパイロットを名誉ある水葬にしたことで知られている。
250キロ爆弾は不発で死傷者はいなかったが、日本軍パイロットの上半身が甲板に飛び込んだ。キャラハン大佐はその死体を甲板から下に降ろすことを命じ、一部乗組員の反対にもかかわらずその死を弔った。
乗組員は日本海軍の赤い太陽と16本の光線をあしらった軍艦旗を縫い合わせて作り、若いパイロットを覆った。合衆国海軍のしきたりでは、水葬は弔銃発射班とラッパ員、そして棺添人から成っていた。
空襲の翌日、12日9時、ラッパ員の吹奏の中、弔銃が3発空に向け空砲が発射されると従軍牧師ローランド・スミス大尉の「彼の遺体は海の深みに委ねられる」ということばとともに葬られた。
1942年の第三次ソロモン海戦では、ノーマン・スコット少将を初め多くの人々が戦死したが、重巡サンフランシスコに座乗していたダニエル J. キャラハン少将(死後)は彼の兄だった。
また奇しくも同海戦でガダルカナル島の飛行場砲撃部隊を指揮した阿部弘毅中将の弟は、バリ島沖海戦で武功を挙げたが、不運にも空母信濃を回航中沈めた阿部俊雄少将だった。
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