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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎壬申の乱

2021-05-29
Facebook佐々木信雄さん曰く【7th Century Chronicle 661-680年】-2
「壬申の乱」は、天武天皇元(672)年6月24日に起こった古代日本最大の内乱
【7th Century Chronicle 661-680年】-2
◎壬申の乱
*672.6.24/ 大海人皇子が吉野を脱出し東国に向かう。(壬申の乱の始まり)
*672.7.22/ 近江朝廷軍が、大海人皇子軍に近江の瀬田で大敗する。
*672.7.23/ 追い詰められた大友皇子(25)が自殺する。
*672.9.12/ 大海人皇子が飛鳥の嶋宮に入る。その冬には、新たに造営された飛鳥浄御原宮に移る。
*673.2.27/ 大海人皇子が即位(天武天皇)し、鸕野皇女(のちの持統天皇)を皇后とする。
 「壬申の乱」は、天武天皇元(672)年6月24日に起こった古代日本最大の内乱で、天智天皇の皇太子「大友皇子」(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇太弟「大海人皇子」(天武天皇)が兵を挙げ、大海人皇子が勝利し、天武天皇となった事件である。
 660年代後半、都を近江宮(大津)へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太弟(皇太子)に立てていたが、天智天皇10(671)年10月、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて、後継とする意思を見せはじめた。
 天智天皇はまもなく病に臥せり、大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は天智の意をくんで、大友皇子を皇太子に推挙し、自らは出家剃髪して吉野宮に退いた。天智天皇は大友皇子に跡を継がせると決め、天智天皇10(671)年12月、近江宮の近隣山科において崩御(46)する。
 当時は父子相続より兄弟間の移譲が主流であり、天智の下で実績を積んだ大海人は、舒明・皇極という両天皇の子で、天智の同母弟として血流的にも後継資格があった。一方、跡を継いだ大友皇子まだ24歳、天智の子とはいえ母は身分が低かった。
 天武天皇元(672)年6月24日、大海人皇子は挙兵を決意し吉野を出立した。大海人皇子は美濃・伊勢・伊賀・熊野などの豪族を従えて、長男の「高市皇子」の軍とも合流する。近江朝廷の大友皇子側も兵力動員をかけるが、大海人皇子側の妨害で思うにまかせなかった。
 大海人皇子軍は、近江と大和の2方面に分かれて進み、大和では苦戦するが、近江方面の軍は、北近江から琵琶湖東岸を南下し、7月22日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍を打ち破り、翌7月23日には大友皇子が自殺し、乱は収束した(壬申の乱)。
 翌天武天皇2(673)年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造営し即位した。天武天皇は、論功行賞と秩序回復のため、服制の改定・八色の姓の制定・冠位制度の改定などを行い、中央集権制を進めていった。
 天武天皇は、鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后に立て、大臣は置かず親政をおこなった。天武の死後は皇后が持統天皇として引き継ぎ、天武・持統の治世には本格的に律令制が進められた。
 壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。まずは「皇位継承紛争」で、当時は同母兄弟間での皇位継承が慣例だったが、天智天皇が嫡子相続制に切り替えを図ったことなどが挙げられる。
 また「白村江の敗戦」や、それに伴った近江宮遷都などが、民衆に大きな負担を課すことになり、天智の急進的な政治改革路線に抵抗する旧守派が、大海人を担ごうとしたことが理由ともされる。
 残るひとつは「額田王をめぐる不和」とされ、天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる三角関係に原因を求める説があるが、これは江戸時代に言われ出した説で、歴史的な根拠は薄い。
 この説は、「万葉集」に収録されている額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子の一対の相聞歌にその因を発する。このやり取りは、天智天皇7(668)年、天智天皇が蒲生野で猟を行った時のことと言われ、その後の酒宴で、激した大海人皇子が長槍を振り回すという乱行をはたらいたとされるが、その理由は不明である。
・あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王)
・紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子)
 額田王は、大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生んだとされ、その後、中大兄皇子(天智天皇)にも寵愛されたという話もあるが定かではない。ただそのような境遇で、上の相聞が交わされたとあれば、ただ事ではない気配も感じられる。これ以上は歴史とは言えないが、古代のロマンを感じさせる物語でもあるので、詳しくは下記に掲載しておく。
(この時期の出来事)
*668.-.-/ 中臣鎌足が近江令の編纂を命じられ、ほぼ完成する。
*670.2.-/ 初の全国戸籍「庚午年籍」の作成が始まる。
*680.11.12/大和 天武天皇が、皇后の病気回復を祈願して、薬師寺建立の願をたてる。

王政復古のクーデター

2021-05-27
◎乙巳の変と大化の改新
Facebook佐々木信雄さん曰く【7th Century Chronicle 641-660年】
【7th Century Chronicle 641-660年】
◎乙巳の変と大化の改新
*645.6.12/ 中大兄皇子が中臣鎌足らと、板葺宮で蘇我入鹿を暗殺する(乙巳[いつし]の変/大化の改新の始まり)。
*645.6.13/ 蘇我蝦夷が、館に火を放ち自殺する。
*645.6.14/ 孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、中臣鎌足は内臣とする。
*645.6.19/ 初めて元号を定め「大化」とする。
*646.1.1/ 「改新の詔」4ヵ条を発布する。
*652.1.-/ 最初の班田収授が行われる。
*652.9.-/ 難波長柄豊碕宮が完成する。
*655.1.3/ 孝徳天皇と不仲になった中大兄皇子が、皇極上皇を再び即位させ斉明天皇とする。
*656.-.-/ この年、後飛鳥岡本宮に斉明天皇が移る。
 「乙巳の変」(いっしのへん)は、「中大兄皇子」「中臣鎌足」らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変のことを指し、それに続いて、中大兄皇子を中心に体制を刷新する一連の改革が行われ、それを「大化の改新」と呼ぶ。
 推古天皇30(622)年2月、厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子は蘇我氏の血を濃く引いており、「蘇我馬子」と連携して推古天皇の摂政的役割をになっていたが、その死により蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横が際立つようになった。
 推古天皇36(628)年3月、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御すると、馬子の後を継いだ「蘇我蝦夷」は、後継に田村皇子を推し、「山背大兄王」(聖徳太子の子)を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてしまい、強引に田村皇子(舒明天皇)を即位させた。
 皇極天皇2(643)年10月、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、紫冠を自分の継嗣「蘇我入鹿」に授け大臣となし、自分の後継とした。皇極天皇2(643)年11月、蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に擁立しようと望み、有力な皇位継承権者である山背大兄王を襲撃させ、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡させてしまう。
 舒明天皇の子「中大兄皇子」や神祇職の一族の「中臣鎌足」は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足らはさらに、蘇我一族の長老 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、機会をうかがった。
 皇極天皇4(645)年、三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が進貢をする朝廷の儀式が行われることになり、大臣の入鹿も必ず出席するとして、中大兄皇子たちはこれを暗殺の絶好の機会とした。
 皇極天皇4(645)年6月12日、板葺宮の大極殿に皇極天皇が出御し、蘇我入鹿も入朝し、石川麻呂が上表文を読み上げる。その時、潜んでいた中大兄皇子と中臣鎌足らは、一気に入鹿に斬りかかり、逃げようとする入鹿を討ち取った。
 中大兄皇子は迅速に周辺を固め、諸皇族・諸豪族を従わせることに成功した。翌6月13日、観念した蝦夷は自ら舘に火を放ち自殺し、強盛を誇った蘇我本宗家は滅亡した。翌6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子となった。
 中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を断行する。初めて元号を「大化」と定め、翌 大化2(646)年正月には、新政権の方針を大きく4ヵ条にまとめた「改新の詔」を発布した。改新の詔は、それまでの「氏姓制度」を廃止し、天皇を中心とする中央集権の「律令国家」を目指すものであった。
 これらは、大化の改新が律令体制を目指した改革だと示すものであったが、日本書紀などにおける記述は、天武・持統以降の律令が整えられた時代に沿うように粉飾されたものだと判明している。以降、中大兄皇子が「天智天皇」として即位してからも、近江京に遷都するなど、政権も政策も不安定な状況が続くことになる。
(この時期の出来事)
*642.1.15/ 皇極天皇が即位。蘇我蝦夷の子入鹿が執政となる。
*643.4.28/ 皇極天皇が離宮から、完成した板葺宮に移る。
*643.10.6/ 蘇我蝦夷が、天皇の授けるべき紫冠を、独断で子の入鹿に授け、大臣に擬する。
*643.11.1/ 蘇我入鹿が、聖徳太子の継嗣山背大兄王を襲撃し、一族を滅亡させる。
*649.3.25/ 蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いをかけられ自殺する。
*650.2.9/ 宍戸(長門)の国から白い雉が献上され、瑞祥として「白雉」と改元する。
*658.4.-/ 阿倍比羅夫が、水軍を率いて日本海を北上、秋田・能代の蝦夷を平らげる。
*658.11.11/ 孝徳天皇の皇子 有間皇子(19)が、謀反のかどで処刑される。
*660.7.16/ 百済が唐・新羅に滅ぼされる。百済の将軍鬼室副信は、日本に救援を求める。

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