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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【日本海大海戦】 1969

2021-10-31
Facebook 春 九千さん曰く
本日は円谷英二特技監督の遺作とされる映画『日本海大海戦』を尼損ビデオで観ていました。
海戦の場面の特撮は本編部分との融合も良く、飛行機登場前の時代の海戦を描くにあたって円谷英二特技監督が他の戦争映画で多用した飛行機からの視点が無く、当時の軍艦のブリッジの高さまでの視点で海戦を描いています。
本当に特殊効果の完成度が高い作品で、映画が産業としてまだ隆盛だった頃の遺産です。

【日本海大海戦
1969 『東宝8・15シリーズ』の第3作とされるが、前2作と異なり日露戦争を題材としている。日露戦争開戦から、乃木希典による旅順攻略、日本海海戦における東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃破するまでを描く。 本作は、円谷英二が実質的に特技監督として参加した最後の映画作品となった。 艦船のミニチュアは美術スタッフ60人を動員して107隻が用意された。また、戦艦三笠のミニチュアは13メートルにおよぶ巨大なものが造られた。 海戦シーンでは、日露戦争当時では太平洋戦争当時よりも砲弾の威力が弱いことを考慮し、フロンガスによって水柱を表現している。 義和団の乱の後、出兵した英、米、仏、独、日、伊、墺の各国は兵を引き揚げたが、ロシアだけは満州に5万の兵を留め、さらに増強していた。日本の再三再四の抗議も成果がなく、ついに交渉は途絶した。1904年1月12日、宮中の御前会議で日露開戦に傾いたことを受け、明治天皇は「国交断絶は両国の不幸である」とロシア皇帝に直接電報を打つ旨を述べた。だが、ロシア政府からの返事は無かった。 海軍大臣・山本権兵衛は海軍の即時行動を伊藤博文に進言した。2月5日、日露の国交は断絶し、連合艦隊司令長官・東郷平八郎はバルト海より来るバルチック艦隊との対決に備え、旅順の攻略に取りかかった。

なぜ台湾人の「ぼく」の父が「三郎」なのか?

2021-10-25
(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

This is the Last Photo of Yamamoto

2021-10-24

【与太郎戦記】

2021-10-19
五代目 春風亭柳昇

春風亭柳昇 与太郎戦記


五代目 春風亭柳昇【与太郎戦記】


春風亭柳昇(五代目)与太郎戦記~戦場にかける恋~【名作:永久保存版】

【近衛声明】

2021-10-15
『Get Back! 30's / 1938年(s13)-2』
【近衛声明】
○1.16 第一次近衛声明発表。日中戦争、泥沼化へ。(国民政府を相手とせず)
○11.3 第二次近衛声明。武漢陥落後の新体制「東亜新秩序の建設構想」を発表する。(東亜新秩序建設に関する声明)
○12.22 第三次近衛声明。国民政府投降派に呼びかけ、日中国交調整の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則をうたう。(近衛三原則)
*1月16日 第一次近衛声明(国民政府を対手とせず)
 1938年(昭和13年)1月16日、近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した。
 近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失うことになった。
*11月3日 第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)
 日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。
 この声明の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。
*12月22日 第三次近衛声明(近衛三原則)
 1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。
 汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。
 第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。
(以上、wikipediaより引用)
 第一次近衛内閣は、この一年の間に三度も「近衛声明」なるものを出した。上記記述では三つの近衛声明のつながりが分かりにくいが、これらをつなぐキーマンは「汪兆銘(おうちょうめい)」だと思われる。汪兆銘は辛亥革命での孫文の後継者的な立場にあったが、袁世凱や蒋介石にその地位を奪われる形になっていた。
 蒋介石国民党と毛沢東共産党とは、第二次国共合作が成立し抗日民族統一戦線を構築しつつあった。山間部でゲリラ戦に徹する共産軍にたいして、蒋介石国民党軍は日本の直面する敵であり、和平にも応じず頑強に抵抗姿勢を示したため、和平交渉を打ち切る第一次近衛声明を発表した。
 その後の日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にも蒋介石は和平に応じなかったため、和平グループの中心的存在となった汪兆銘を重慶国民党政府から離反させることを企図し、第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)を出した。つまり提唱する「新秩序」に対応するなら、和平の交渉相手とするということで、その相手とは汪兆銘を指している。
 さらに続いて第三次近衛声明て、講和後の三原則方針を具体的に提示する。汪兆銘はこれを歓迎し、脱出先のハノイから「和平反共救国」を訴えたが、これに呼応する有力者は無く、重慶国民党政府は汪兆銘を永久除名しすべての地位を解除した。このすぐあと、早期停戦のツテを失った近衛は政権を投げ出す。
 近衛が与しやすしとして交渉相手に選んだ汪兆銘は、結局近衛と同じ優柔不断さで実権をもち得なかった。似た者同士が手を組もうとして失敗する例は、今でも多く存在する。交渉相手には、最も困難とされる相手を選ぶべきなのである。
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