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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

お上は東京へお下りになったのですが・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-5
◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)
<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。
 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。
 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。
<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。
 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。
 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。
 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

“Baddest Man in the 761st” He Went Full On Berserker Destroying Everything In His Path

2021-11-03

「君たちには、死ぬ権利はない」

2021-11-03
Facebook ジーク ノブオさん曰く
太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、フィリピン・ルバング島で孤独な日々を過ごし、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎旧陸軍少尉の物語を、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督が映画化。終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが……。主人公・小野田の青年期を遠藤雄弥、成年期を津田寛治が演じ、仲野太賀、井之脇海、イッセー尾形らが共演。2021年・第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。

ダニエル・イノウエ上院議員は1963年から2012年に死去するまで、米国上院議員を務めた。

2021-10-31

ダニエル・イノウエ上院議員は1963年から2012年に死去するまで、米国上院議員を務めた。彼の死の時、彼はアメリカで2番目に長く座っている上院議員で、彼は簡単に第二次世界大戦で最も殺すのが最も難しい男の一人と考えることができると考えると、全く驚くべきことではありません。


差別と人種差別に直面したこの日系アメリカ人は、苦い心で選んだならば、この戦争に座るあらゆる理由がありました。しかし、彼が彼のアカウントに参加したときに彼に次のように言った父親によって育てられたと考えてください:「私の父はちょうどまっすぐ前を見て、私はまっすぐ前を見て、彼は喉をクリアし、彼は「アメリカは私たちに良かったです。それは私に2つの仕事を与えました。

それはあなたとあなたの姉妹と兄弟の教育を与えました。私たちは皆、この国が大好きです。あなたが何をするにしても、あなたの国を不名誉にしないでください。覚えておいてください - あなたの家族を不名誉にしないでください。そして、自分の命を与えなければならないなら、名誉をもってそうしてください。

太平洋の翼 予告編

2021-10-31
Facebook 春 九千さん曰く

今日は昨日に続き円谷英二特技監督が特撮を担当した映画『太平洋の翼』を尼損ビデオで観ていました。
第二次世界大戦末期に日本海軍としては最新鋭の局地戦闘機紫電改を装備し、エースパイロットを集めて、本土防空のために結成された松山の三四三航空隊を舞台にした作品です。
円谷英二特技監督はパイロットを目指していたと言うこともあり、空中戦の場面はかなりの迫力です。
この映画の飛行機の場面は良く言われる吊りだけではなく、ラジコン機や合成なども用いて絶妙に再現されています。

【あらすじ】
 昭和十九年六月、無敵を誇った零式艦上戦闘機も敵新鋭機の前に衰えをみせ、 制空権を失った日本海軍の前途は暗澹たるものがあった。 大本営では特攻攻撃以外にすべはないという意見が圧倒的だったが、 一人千田航空参謀は新鋭機“紫電改”の完成とともに精鋭をすぐって制空権を奪い返し、 それを突破口として戦局を打開すべきであると主張した。 意見は容れられ優秀な三人の搭乗員、安宅大尉矢野大尉、 滝大尉を四国松山基地へ集結させるよう太平洋各地へ打電された。 すでに敵の艦隊に取り巻かれてぃる硫黄島から、 安宅は魚雷艇の追跡をかわしながら命からがら味方の潜水艦に救助された。 続いてラバウルにある矢野は、 もって生れた機智と度胸で米軍の魚雷艇をぶんどって。 比島の滝は燃料も少ない丸腰の輸送機を駆って帰遷した。 はためく幟に大書した第三四三航空隊。 紫電改七二機を背に三飛行隊各二四名が勢揃いした。 司令千田は、最後まで生き抜いて戦うこそ戦闘であると特攻を許さなかった。 昭和二十年三月十八日、敵は四国九州地区へ向け艦載機の大群を放った。 七二機の一斉離陸。 紫電改は雲間をついて一挙に狼狽する敵機に襲いかかった。 落下炎上する敵機の数は紫電改の数倍に及び、 三四三航空隊の勇名はとどろいた。 軍令部は直に受持区域の拡大を強制してきた。 可動機数が減少している今、それは無謀だった。 三本の矢も一本になったら--。 豪放に出発していった矢野は劣勢をかって遂に散った。 時を同じくして、片道燃料だけで戦艦大和出撃の報が伝わった。 大和に限りない愛着をもつ安宅らは千田の命令をも無視して、 大和護衛のため沖縄へと向った。そして大和と共に永久に姿を消した。 唯一人生き残った滝は、 何かに憑かれたかのようにB29二百機の編隊めがけてまっしぐらに突き進んでいた。 その頃、基地では、千田司令が滝に帰還命令をだしていた。 そして、美也子も彼の生還を祈っていた。 だが、滝は無線電話を引きちぎり、B29へ体当り攻撃をかけていった。 
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