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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

ネルー首相から日本の子どもたちへ贈る言葉

2021-05-30
ニューデリー日本人学校 学校だより 校長 岡林 保幸
191025-10月グルモール .pdf (ndjs.org)

戦争中、上野動物園では爆撃で檻が壊され、猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう 薬殺などの処分が行われました。
象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。(童話「かわいそうなぞ う」土家由岐雄) では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのかご存知ですか?
実はインドの ネルー首相が、上野動物園がある台東区の子どもたちの熱望に応え、昭和24年に自分の娘の名前を付 けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
 それは、独立間もないインドが、イギリスの植民地から解放するために、命をかけて貢献してくれた日 本に対しての深い好意を持ち、「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思ったからでした。 
この時、ネルー首相から子どもたちに次のような文書が贈られました。

皆さん 私は皆さんの希望によって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。 この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしる しをしっかりそなえているとの事です。 皆さん、この象は、私からのではなく、インドの子どもたちから日本の子どもたちへの贈物で あるとご承知下さい。 世界中の子どもたちは多くの点で似かよっています。 ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。 私たちはこの様な大人たちの喧嘩を止めさせなければなりません。そして、私の願いはインド の子どもたちや日本の子どもたちが成長した時には、おのおの自分たちの立派な祖国のためばか りにではなく、アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。 ですから、このインディラという名を持った象を、インドの子どもたちからの愛情と好意の使 者として考えて下さい。インディラは東京でたったひとりぼっちで、あるいは少しさびしがって 遊び友だちを欲しがるかも知れません。 もし、皆さんが希望するならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で、幸 福になるように、お友だちの象をもう一頭送るようにすることもできます。 象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、しかもインドの特に代表的なも のです。象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。私たちも皆、象の持つ これらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。 おわりに、皆さんに私の愛情と好意とを贈ります。
           ジャワハルラル ネルー  1949年9月1日 ニューデリー

このインドの好意はその後も続いていて、四頭目の象には「スーリア」が 贈られました。
「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、 これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されました。
10月22日には「ナマステ!INDIA☆DAY」が開催されました。
インド に関する様々な文化に触れる活動を通してインドへの関心を高め、現地理解 を深めると共に、日本と異なる文化を認め、国際社会の一員として生きてい こうとする姿勢を培うことができたらと思います。
ネルー首相と娘さん、そして象のインディラ (上野動物園にて)

象のインディラ物語り

2021-05-30
台東区の子供達が象を贈ってほしいとネール首相に想像で描いた象の絵を送る。
ネルー首相と娘さん、そして象のインディラ (上野動物園にて)
耳が小さかったり、鼻が短かったりした象の絵を見て、首相は日本の子供達に象を贈る事を決めた。
台東区の子供達が象を贈ってほしいとネール首相に想像で描いた象の絵を送る。耳が小さかったり、鼻が短かったりした象の絵を見て、首相は日本の子供達に象を贈る事を決めた。しかし、そこに至るまでの廃虚の下町で強い意志と行動力を持った子供達を支えていった戦後の大人達の姿があった。ドラマはどのようにして起ったのか知りたい方は、以下の台東区史に記載された文章をお読み下さい。

日印友好の証

2021-05-30
Facebok永井由紀夫さん曰く
花子がやってきました。
1935(昭和10)年にはアジアゾウのワンジー(花子)とともにゾウ調教師のウィドラ氏が来園しました。
上野動物園の飼育係はウィドラに弟子入りし、ゾウの訓練を学んだのです。
写真は入園者と綱引きをするワンジーとウィドラ氏

【『台東区史 』より】
もう一つの象物語り
 インディラは、昭和五十八年八月十一日、上野動物園で死んでいる。 
四九歳であった。
 ここで同時期にタイからやってきた象の「花子」についてふれておく。
子供達の“上野に象を”の運動に応えて、マスコミ大手の二社がタイから牝の子象一頭を輸入した。
昭和二十四年九月二日神戸港に上陸、二歳半の子象なので、鉄道により汐留へ。
同月四日にはインディラよりも一足先に動物園入りし、十日に贈呈式、名前も「ガチャ子」といっていたが、公募により「花子」とつけられた。
 ここで上野の山は、いっきに象が二頭となり、日本中の子供達の人気の的となった。
上野の町でも「象まつり」を行って町を上げて歓迎したのであった。
『上野繁昌史』によると、まつりではアトラクションとして張子の象を作って、町中を仮装行列とともに練り歩く予定だった。
しかし、当日届いた張子の象が余りにも小さすぎたため、上野の空に宣伝のために浮かんでいたアドバルーンを降ろして張子の代わりとし、事なきをえたようである。 

8月になるとどうしても思い出すのが、実話を元にしたこの絵本

2021-08-03
Facebook 雪風 丹陽さん曰く


子供の頃から動物園が大好きです。
幼児期の私が最初に真似したのは、ゾウとペンギンだったそう。...で、
8月になるとどうしても思い出すのが、実話を元にしたこの絵本。
私が初めて読んだのは小学校の図書館の時間でした。
太平洋戦争末期、上野動物園にいた3頭の人気者の象が戦時猛獣処分されるお話。
もうね、エサ貰おうとフラフラになりながら飼育員さんの前で芸をしようとするくだりから、子供心に泣けて泣けて...そこから先に読み進められなくなってしまう、涙腺破壊力ハンパないトラウマ級の絵本でした。
やっぱり平和が一番のパラダイスですね!!

◎天武・持統朝と律令制

2021-05-30
Facebook佐々木信雄さん曰く
【7th Century Chronicle 681-700年】-1
◎天武・持統朝と律令制
*681.2.25/ 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
*681.2.25/ 草壁皇子が皇太子となり、政務を行う。
*683.2.1/ 天武天皇の第3皇子 大津皇子が政治に参画する。
*684.10.1/ 「八色の姓」を定め、従来の族姓(かばね)を8種類の姓に再編する。
*686.9.9/ 天武天皇没。皇后鸕野讚良(のちの持統天皇)が即位せずに政治を執る(称制)。
*686.10.2/ 大津皇子(24)が謀反の罪で捕らえられ、翌日自害する。
*689.4.13/ 草壁皇子(28)没。
*690.1.1/ 皇后鸕野讚良が即位する(持統天皇)。
*690.7.5/ 浄御原令の官制を施行。高市皇子を太政大臣とし、八省百官の役人を選定する。
*694.12.6/ 藤原宮に都を移す。
*696.7.10/ 高市皇子(43)没。
*697.8.1/ 持統天皇が譲位し、孫の軽皇子が即位する(文武天皇)。
*697.8.20/ 藤原不比等の娘宮子が入内する。
*700.6.17/ 刑部親王・藤原不比等らに新たな律令(大宝律令)を編纂させる。
*701.8.3/ 大宝律令が完成する。
 「天武天皇」(大海人皇子)は、舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子の同母弟にあたり、天智の皇女 鸕野讃良を皇后とした(持統天皇)。天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子を倒し、その翌年に即位する。
 その治世は14年間にわたり、飛鳥浄御原宮を造営し律令制を進めるなど、続く「持統天皇」の時代とあわせて天武持統朝と一括されることが多い。日本の統治機構の原型が作られ「律令制」が確立されてゆく重要な時代で、天武が路線を敷き持統が引き継ぎ完成させた。文化的には白鳳文化の時代とされる。
 天武天皇は、自身の子など皇族を要職につけて皇親政治をとり、専制君主的な親政を行った。「八色の姓」で氏姓制度を再編し、「飛鳥浄御原令」の制定、「新しい都(浄御原京・藤原京)」の造営、「日本書紀」や「古事記」の史書の編纂など、律令制の導入に向けた制度改革を進めた。
 持統天皇(鸕野讃良皇女)は、壬申の乱の後に天武が即位すると、皇后に立てられる。天武天皇と皇后は、679年に6人の皇子を吉野の宮に集め、互いに争わずに協力すると誓わせる「吉野の盟約」を交わした。
 この時、草壁皇子が最初に、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。681年、天皇と皇后は律令を定める計画を発令し、同時に「草壁皇子(19)」を皇太子に立てて、大津皇子・高市皇子たちにも朝政に携わらせた。
 686年、天武天皇は病に倒れ、政治を皇后と皇太子に委ねたたあと、9月11日に崩御する。翌月10月2日には、「大津皇子」が謀反の容疑で捕らえられ自害する。天武天皇の殯(もがり)の期間は長く続けられ、688年11月21日に明日香大内陵に葬られた。鸕野皇后がそのまま称制して、皇太子草壁皇子の即位の機が熟するのを待つが、689年3月13日、草壁皇子(28)が死んでしまい、皇后が即位する(持統天皇)。
 持統天皇は、御原令を施行するとともに、天武朝の皇親政治に代えて本格的な官人制を導入し、「高市皇子」を太政大臣に据え八省百官を任命したといわれる。壬申の乱から大海人に従い武功のあった長子高市皇子は、母親の身分ゆえに序列3位に置かれていたが、持統天皇を支えて、太政大臣として政務で官を仕切った。
 持統天皇は、都城制を敷いた本格的な新京として「藤原京」の造営を始めさせた。690年10月には、高市皇子が多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察しており、4年後の694年、飛鳥浄御原宮から宮を遷した。天皇ごとに遷宮が行われた慣例に代えて、持統・天武・元明3代にわたった京として、平城京の前例となった。
 太政大臣として持統朝をささえた高市皇子が、696年7月に死去すると、持統天皇は、697年8月1日、孫の軽皇子(15)に譲位し(文武天皇)、太上天皇(上皇)となった。持統上皇は文武天皇をささえ政務を執るも、702年12月、病を発し22日に崩御(58)する。
 この時期には、壬申の功臣に代わって藤原鎌足の子「藤原不比等」ら若い世代が台頭し、文武・元明朝の政務を取り仕切るようになった。
(この時期の出来事)
*699.5.24/ 修験道を開始し、妖術を駆使したとされる役小角(えんのおづぬ)が、伊豆に流される。
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