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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

A・ヒトラー

2020-06-13
Facebook 佐々木信雄

【20世紀の記憶 1921(T10)年】
 

(アドルフ・ヒトラー)
*7.29/独 アドルフ・ヒトラーがNSDPA(ナチ党)の党首に就任。規約を改正して無制限全権を握る。
 

 オーストリア=ハンガリー帝国に生まれたアドルフ・ヒトラーは、のちにドイツ国籍を獲得して、第一次世界大戦に義勇軍伝令兵として参加した。西部戦線で毒ガス攻撃を受けて障害を受けたヒトラーは、収容された野戦病院でドイツの降伏を知り、大きな精神的ダメージを受けた。
 

 戦後も軍属として、新興政党などの諜報に従事する中、その諜報対象であった「ドイツ労働者党」(DAP)の反ユダヤ主義、反資本主義に惹かれて入党する。天才的な演説で民衆を引き込む才能を見込まれたヒトラーは、すぐに党幹部となるとともに、党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP、ナチスは蔑称)と改名させる。
 

 この日1921年7月29日、党内で分派闘争が起きると、それに乗じて党執行部のクーデターを引き起こし、ヒトラーが第一議長に指名された。彼は、唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求し、周囲からは「Führer」(フューラー、指導者)と呼ばれ始めた。
 

 ヒトラーは、ドイツ革命中、共産主義者などの排除などで功績のあった民兵組織フライコール(ドイツ義勇軍)に影響力をもったエルンスト・レーム大尉らによって「突撃隊」(SA)を組織させ、実力行使で党勢を拡張していった。
 

 突撃隊は「ミュンヘン一揆」での蜂起失敗などをへて、街頭闘争や政敵弾圧などに力を発揮したが、ヒトラー・ナチスにとって絶対服従的な組織ではなく、その後、ヒトラー直属の「親衛隊」(SS)によって、レームなど幹部が粛清され(長いナイフの夜)、突撃隊も、親衛隊の配下に改組された。
 

 ドイツ革命の時期には、多数の政党が乱立対立し、しばしば実力行使で党勢拡張をはかった。政党の集会や演説会の警備を名目に、各党は準軍隊組織を抱え、他党の政治活動の妨害などで衝突することが多かった。ヒトラー・ナチスは、元軍人や義勇軍兵士を「突撃隊」としてかき集め、最も有効に活用したと言える。
 

『ヒトラー演説 - 熱狂の真実』 (中公新書) 2014/高田博行(著)
https://www.amazon.co.jp/…/4121022…/ref=pd_lpo_sbs_14_img_2…
 
 
映画『独裁者』"The great dictator" 1940年/チャールズ・チャップリン
https://www.youtube.com/watch?v=78bYriDPUww
 

〇この年の出来事
*2.8/ソ アナーキズムの巨星クロポトキン、墜つ。
*3.8/ソ ロシア共産党大会が開かれ、レーニンの新経済政策「ネップ」案が採択さる。
*5.5/中 孫文が上海で大総統に就任。第二次広東政府を樹立。
*8.2/ソ 飢餓に苦しむソビエトで、レーニンが諸外国の援助を要請。
*8.20/米ソ ソビエト飢餓救済で米ソが協定。
*11.4/独 ヒトラーが「突撃隊」(SA)と命名したナチスの実力部隊が、共産主義者と大乱闘。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170629

ラストエンペラー来日

2020-06-20

詳細

4月6日、満州国皇帝が初めて来日。
昭和天皇は東京駅のホームまで出迎えに行き、握手を交わしました。


https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009170006_00000

パリ不戦条約

2020-07-09
佐々木 信雄さんのFbより

『Get Back! 20's / 1928年(s03)』
 

(パリ不戦条約)
○8.27 [フランス] パリで、不戦条約が日本などの15か国によって調印される。「パリ不戦条約」
 

 第一次世界大戦での反省から、諸国間で「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」との不戦条約が結ばれた。パリで条約が調印されたので「パリ不戦条約」と呼ばれ、当初交渉を始めたのは米仏間で、米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンの名前から「ケロッグ・ブリアン協定」とも呼ばれる。
 

 紛争は戦争ではなく平和的手段により解決すると規定され、「戦争放棄に関する条約」とされる。それまでの19世紀的戦争観によれば、主権国家は相互に対等であり、個人間の「決闘」のごとく、互いの存在と尊厳を守る手段として、国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていた。
 

 不戦条約はこの国際法の無差別戦争観を否定するものであり、国際的に戦争を放棄する条約は画期的であった。条約違反を超越的に抑止する機関はなかったが、不戦条約違反とされた国があれば、他の諸国は自動的に制裁権(制裁戦争)が履行できるとされた。
 

 ただし、米国などから「自衛の戦争は除く」という制限が付け加えられたため、結果的に「(自衛を除く)侵略戦争」のみを禁止する条約となった。しかも「侵略」の定義が「当事国の自国裁量権に任せる」とされたため、何でも自衛のためと理屈つけられる抜け道だらけの条約となった。あの大東亜戦争をも含めて、その後戦争を引き起こした国は、いずれも侵略戦争であることを認めたためしがない。
 

 不戦条約が物理的な抑止力の無い理念的なものとなったため、その後各国は「集団安全保障」体制を組むことになる。議論になった「集団的自衛権」は、集団安全保障体制に限定されるものではないが、少なくとも集団的自衛権を行使できることが、集団安全保障に必要な双務的要件であることは自明である。
 

*この年
ダンスホールが人気/オカマ帽・ラッパズボン・ミニスカートが流行/天皇への直訴が6件を数え、奉書紙の購入には住所氏名の明示が義務となる
【事物】国産電気吹込式レコード/普通選挙
【流行語】弁士中止/人民の名において/モン・パリ/マネキンガール
【歌】波浮の港(佐藤千夜子)/アラビアの唄(二村貞一)
【映画】新版大岡政談(伊藤大輔)/十字路(衣笠貞之助)/暗黒街(米)
【本】「マルクス・エンゲルス全集」(改造社)/坪内逍遥訳「沙翁全集」/林芙美子「放浪記」(女人芸術)/川上肇「資本論入門」/講談社「講談全集」
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20160902

ベルサイユ体制

2020-06-07
Facebook 佐々木信雄さんの投稿です。

【20世紀の記憶 1919(T8)年】(ref.20世紀の全記録)
 

(ベルサイユ講和条約)
*6.28/仏 「ベルサイユ講和条約」が調印される。
 

 ベルサイユ条約は、1919年6月28日にフランスのベルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。第一次世界大戦の終結を受けて、1919年1月18日から、フランスのパリで世界各国の首脳が集まり「パリ講和会議」が開始され、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際協調体制構築についても討議された。
 

 パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約は、パリ郊外のベルサイユ宮殿で調印されたため「ベルサイユ条約」と呼ばれる。そして、この条約や関連諸講和条約によってもたらされた国際秩序を、ベルサイユ体制という。パリ講和会議は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの理想主義を基調に進められ、「国際連盟」の成立など、平和秩序の維持を希求したが、それを支える現実的な制度が、各国の意向で整えられず、その崩壊が第二次世界大戦へと流れ込んでいった。
 

 パリ講和会議は、参戦国でもあったが仲介役的立場の米大統領ウィルソンと、英首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーを中心として進められた。ウィルソンは、「十四か条の平和原則」を発表し、「公正な講和」をアピールして、講和後の融和的な各国の関係を重視したが、直接に戦闘を交え甚大な被害を被った英仏両国は、ドイツに巨額の賠償や領土割譲を含め、懲罰的な負担を科する強硬意見であった。
 

 当初、ドイツやオーストリアの政体が不安定な状況もあり、まず連合国間で講和条件を話し合うことになった。戦勝五大国(英・仏・米・伊・日」の全権代表で構成される「十人委員会」で、重要課題は検討されることになったが、その後、情報遺漏問題もあって、実質は、英仏米三首脳にイタリアのオルランド首相を加えた「四人会議」が中心となった。
 

 フランスは、直接国境で接し、過去何度も戦争をしてきた隣国ドイツに対する不信感は強く、潜在的脅威を完全に取り除くべく、莫大な賠償や領土割譲など、強硬に懲罰的な条件を求めた。一方のアメリカは、理想主義者ウィルソンの意向もあり、「公正な講和」と「戦後の協調体制構築」で、行き過ぎた懲罰要求を緩和すべきとした。イギリスは、仏に立場は近いが、妥協的に対応した。
 

 講和案がまとめられると、ドイツ代表がパリ会議に招かれ通知された。ドイツ側は、国民からの大反発もあり、講和案を拒絶するが、ドイツ側からの提案を出し、若干の修正の後、再度講和案が提示された。連合国側は、返答期限を切り、受諾亡き場合は戦闘再開も辞せずという断固たる姿勢で臨んだため、ドイツはしぶしぶ講和案を受諾、ベルサイユ条約が締結されることになった。
 

 ベルサイユ条約は、米ウィルソンの提唱した「国際連盟」条項を包含するなど、平和的な協調体制理念が盛り込まれていたが、一方で仏クレマンソーを代表とする、ドイツに対する復讐懲罰的な苛酷要求との、妥協の産物であった。その結果、国際連盟は米議会の反対で批准されないなど、具体的な平和維持機構ととしては機能せず、一方で、敗戦国ドイツへの苛酷な賠償負荷は、それに耐えきれないドイツ国民の疲弊を招き、やがてナチス台頭など、第二次大戦への導火線ともなった。
 

$映画『シークレット・オブ・モンスター "The Childhood of a Leader" 』(2015/英仏ハンガリー)

 ジャン=ポール・サルトルの短編小説「一指導者の幼年時代」をベースにした心理ミステリー。ベルサイユ条約締結直前のフランスを舞台に、アメリカからやって来た政府高官の幼い息子が、「独裁者」というモンスターへと変貌を遂げる謎に迫るさまを描く。
http://eiga.com/movie/85295/

$ジャン=ポール・サルトル「一指導者の幼年時代」(「水いらず (新潮文庫)」所収)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B4%E3%81%84%E3…/…/4102120017
 

〇この年の出来事 
*1.18/仏 第一次大戦の終結を受け、パリ講和会議が始まる。
*2.6/独 ワイマールでドイツ共和国国民会議開催。民主共和派が大勢をしめ、大統領にエーベルトを選出。
*3.1/朝 京城を始めとする主要都市で、反日独立運動がはじまる。「三・一運動」
*5.4/中 中国で「五・四運動」が起こる。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170613

革命という名の血の粛清

2020-06-03
ロシア中央部のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家は、
この反乱を機に、反革命派による奪回をおそれて、一家全員が銃殺され、
 ここにロシアロマノフ家の血は完全に断たれることになった。
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