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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

伊藤野枝という生き方

2022-07-22
Facebook 佐々木 信雄さん曰く
【文学】09.伊藤野枝という破天荒な女
 幸徳秋水の大逆事件を調べていたら、関東大震災直後のどさくさに、アナーキスト「大杉栄」らが虐殺された甘粕事件につながって、その時いっしょに謀殺された妻の「伊藤野枝」の名が出てきた。さらに、野枝に大杉を寝取られた前妻「神近市子」が、日陰茶屋事件で大杉を刺す事件とか、野枝が捨てた前夫がダダイスト詩人「辻潤」であったとか、訳の分からぬ人脈が連なってきた。
 その辻潤が一緒になったウワバミのキヨこと「小島キヨ」が入り浸った、「南天堂書房」二階のレストランがアナーキスト、ダダイストの溜まり場で、「林芙美子」、「平林たい子」、伊藤野枝、そして小島キヨら「自由恋愛主義」の女らが出入り、林芙美子など、テーブルの上にひっくり返って「さぁ、どうともしてくれ」と啖呵を切るとかで、「ハレンチ南天堂時代」だったとか。
 ともあれ、男遍歴を肥やしに作家となった林芙美子や瀬戸内晴美(現寂聴)なども、足元にも及ばないほどぶっ飛んだ女が「伊藤野枝」だった。野枝は「平塚らいてう」の「青鞜社」に通い始め、当時の錚々たる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・岡本かの子・神近市子らと親交を深めて強い刺激を受けた。
 平塚は、雑誌「青鞜」を発刊し、女性解放運動の嚆矢となったが、母性保護を国家に求めるなど、女性の自立を主張する与謝野晶子らから批判を浴びた。後年、伊藤野枝が「青鞜」の編集・発行を受けつぐと「無主義、無規則、無方針」をモットーにエリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放。情熱的に創作・評論・編集に活躍し、「青鞜」を文芸雑誌から女性評論誌、あるいは女性論争誌と呼ぶべきものに変えていった。
 必然的に平塚と伊藤の間に確執が発生し、伊藤が大杉栄の下に去ると「青鞜」は休刊となった。平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのと対照的に、野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。伊藤野枝の個人主義を平塚らいてうは終生受け入れられず、伊藤を、思想面よりも、その人格や行動に対する情緒的な批判しかできなかった。
 平塚は伊藤を全否定するかのように、「人格的の訓練を欠いた一種の自然人」と書いている。これは、ある意味、的を得ているともいえる。ただし、平塚はやんわり「自然人」と書いているが、むしろ「野人」ないし「野獣」と書きたかったのではないか。
 野枝は「わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった」とされる。女に対してだらしのなかったアナーキスト、ダダの詩人で前夫の辻潤も、甘粕事件で共に扼殺される大杉栄も、その「わがままさ」というより凶暴さには、さすがにビビっていた気配がうかがえる(笑)
 伊藤野枝は、生涯7人の子をもうけ、28歳で逝った。その思想は、アナーキスト、ダダイストの極北を行き、女権思想の最先端を行っていたともいえる。しかし、残念ながらそれを思想的に深めるだけの余地はなく、その後継者も現われなかった。若くして逝ったゆえか、それとも女性固有の情緒性ゆえなのかは、誰にも分らない。
 伊藤野枝伝としては「村に火をつけ,白痴になれ」(2016/栗原康著)が刊行されている。https://www.iwanami.co.jp/book/b263941.html
 「読みたい、書きたい、食べたい、セックスがしたい、子どもがほしい。ふつう、ひとはなにかをやるためには、なにかをあきらめなくてはいけないとおもいこまされている。生きるためにとかいって、まずカネのことを考えさせられるからだ。たとえば、家庭をもつようになったら、カネにもならないのに夢をおいかけたら、わがままだといわれてしまう。でも、伊藤野枝はちがっていた。やりたいことがあったら。なにがなんでもやってしまう。ひとつじゃない、全部だ」(著者からのメッセージ)
 なお、映画では『エロス+虐殺』や『華の乱』などで、大杉栄と伊藤野枝が描かれている。
(追記)
 瀬戸内晴美は、伊藤野枝をモデルに「美は乱調にあり」「諧調は偽りなり」という前後編を書いている。これは、「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」という大杉栄の言葉から採ったという。
 伊藤野枝のほかにも、大逆事件に連座した菅野須賀子、第二の大逆事件で縊死した金子文子、平塚らいてう、高群逸枝、田村俊子、岡本かの子等々、錚々たる女権拡張論者かつスキャンダラス女人達の伝記ないしモデル小説を書いている。
 スキャンダラス女の生涯をモデルに、数多くの男を肥やしに、女として世界を味わいつくした後、今や頭を丸

安倍元総理の暗殺者は誰か?

2022-07-20
Facebook 村山 和夫さん曰く、首に被弾し心臓に入った弾は山上の銃ではない。 どこかビルの屋上からの銃としか考えられない。

大本営 陸軍部

2022-07-19
Facebook 高橋晃一さん曰く

防衛省市ヶ谷駐屯地
市ヶ谷記念館(旧陸軍省一号庁舎)
1937年建設(取り壊し後、1998年一部再建)
東京国際軍事裁判所になる等、歴史のさまざまな舞台になったところです。
大元帥陛下をお迎えする玉座を備えた大講堂です。
極東軍事法廷は、こちらで開廷されました。

大陸進出の入り口は、こちらでした。

2022-07-18

~7/16、企画展、始まります~
【記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~】

 
本年は舞鶴市と大連市が友好都市になって40年目。それを記念して7/16より「記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~」の企画展を開催します。10/16まで。
 中国・大連市は、第2次世界大戦後に日本への引揚者の出発港となった都市の一つ。終戦前の大連には20万人近い日本人が暮らしており、大連で生まれ育った方々が現在でも日本各地におられます。満洲の玄関口であった大連は当時の満洲各地で暮らしていた日本人にとっても馴染みの深い港町でした。本企画展では、終戦前後の大連の町を当館が収蔵する資料で紹介します。是非、ご来館ください。詳細は、上記URLにて確認してください。

宮殿で出迎え受けたバイデン氏、表情ぎこちなく…記者殺害で孤立の皇太子に「免罪符」

2022-07-18
© 読売新聞 (写真:読売新聞)
 【ジッダ(サウジアラビア西部)=蒔田一彦、カイロ=上地洋実】中東歴訪中の米国のバイデン大統領は15日、サウジアラビア西部ジッダで、同国の実権を握るムハンマド・ビン・サルマン皇太子と会談した。バイデン氏は、サウジ人記者殺害事件を巡って冷え込んでいた両国関係の修復に踏み切った。事件で批判を浴びてきた皇太子にとっては、外交舞台への復帰を印象づける場となった。

■ツーショット

 両氏はジッダの宮殿で対面した。車を降りたバイデン氏を皇太子が出迎え、握手の代わりに拳をタッチさせてあいさつした。「皇太子に会いに行くのではない」と公言していたバイデン氏は、ツーショットの場面を避けたかったとみられ、ぎこちない表情だった。

 会談では、記者殺害事件も協議された。バイデン氏は会談後の記者会見で、「米大統領として、人権問題に沈黙することはできないということを伝えた」と明らかにした。

■お膳立て

 米サウジ関係は、事件に対するバイデン政権の対応を巡り、悪化していた。バイデン氏は2020年の大統領選期間中から、「サウジをのけ者として扱う」と発言し、大統領就任直後には、サウジが軍事介入するイエメン内戦に関し、サウジへの軍事支援を停止した。昨年2月には、皇太子が事件に関与したとの報告書を公表した。

 そうした冷遇にもかかわらず、サウジ側は今回のバイデン氏訪問に向け、お膳立てをしてきた。イエメンでは今年4月、支援する暫定政権と反政府武装勢力フーシとの停戦を実現した。6月には、石油輸出国機構(OPEC)加盟国やロシアなどによる「OPECプラス」の閣僚級会合で、サウジが主導して原油を追加増産する合意を取りつけた。国交がないイスラエルの航空機の領空通過も認めた。いずれも米側が対応を求めていたものだ。

■「免罪符」見方も

 サウジがバイデン氏訪問にこだわった背景には、王位継承者としての皇太子の威信回復を図る狙いがあるとみられる。

 事件を機に皇太子は長らく、欧米から距離を置かれてきた。主要20か国・地域(G20)首脳会議の場で皇太子と握手を交わすのは、中国やロシアなど人権問題に口を挟まない権威主義国家の指導者だけだった。

 そうした中でバイデン氏との会談が実現したことは、皇太子が米国から事実上の「免罪符」を得たとの見方が広がっている。

 米サウジ関係は、米国が安全保障を担い、サウジが石油を安定供給するという「石油と安全保障」の盟約のもとに成り立ってきた。サウジとすれば、バイデン政権との従来の外交関係を回復させ、産油国として影響力を誇示できただけでも大きな外交成果だ。会談に同席したサウジのアデル・ジュベイル国務相(外務担当)は16日、地元紙アラブ・ニュースのインタビューで「訪問は、米国にとってのサウジの重要性を象徴するもので、大成功だった」と評価した。

 ◆サウジ人記者殺害事件=サウジ王室を批判してきたサウジ人記者のジャマル・カショギ氏が2018年10月、トルコのサウジ総領事館で殺害された事件。サウジは当初、事件を否定していたが、殺害時の音声データなどの流出を機に、殺害を認めて容疑者を拘束した。ムハンマド皇太子が殺害を指示したとの疑いが持たれているが、サウジ側は否定している。

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