本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎藤原道長・頼通の栄華

2021-06-27
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【11th Century Chronicle 1021-1040年】
【11th Century Chronicle 1021-1040年】
◎藤原道長・頼通の栄華
*1021頃/ 藤原道長の「御堂関白記」(自筆日記)の記述が終わる。
*1022.7.14/ 藤原道長が法性寺金堂・五大堂の落慶供養を行う。法性寺の諸仏制作の功で、定朝が法橋の位を授かる。
*1023.5.-/ 藤原道長が、娘の太皇太后彰子の住まう上東門第(土御門第)で、田植えを祝って田植女に田楽を行わせる。
*1027.12.4/ 藤原道長(62)没。
*1029.3.23/ 関白藤原頼通が、自邸高陽院に文人を招き、詩会を催す。
*1031.10.20/ 藤原頼通が、興福寺五重塔と東金堂の落慶供養をとり行う。
*1035.5.16/ 藤原頼通が高陽院水閣歌合を催す。
*1037頃/「栄花物語」正編ができる。
<藤原頼通>
 藤原頼通は正暦3(992)年、摂政太政大臣藤原道長の長男として生まれ、寛仁元(1017)年、若くして(26)父道長から後一条天皇の摂政を譲られる。2年後には関白となるが、道長が万寿4(1028)年に亡くなるまでは、その後見を受ける。
 父の死後は、後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世で、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏摂関家の全盛時代を築いた。しかしながら、父道長と異なり子女に恵まれぬ頼通は、やむなく養女とした嫄子を入内させ後朱雀天皇の中宮としたが、嫄子が男子を産むことはなかった。
 後朱雀天皇を継いだ後冷泉天皇は、道長の娘で頼通の妹嬉子の産んだ子だが、嬉子が産後すぐに死去したこともあり、頼通とは比較的疎遠であった。そのため、藤原氏と縁の薄い尊仁親王(後三条天皇)が、後冷泉天皇の東宮に立てられた。
 頼通は60歳近くになった永承5(1050)年、唯一の娘の寛子を入内させ皇后となし皇子誕生に望みを繋いだが、ついに皇子に恵まれることは無かった。疎遠な後三条天皇が即位すると、藤原氏をはずして親政を行い、一方、頼通が強く望んだ実子師実へ摂関を譲ることも、道長の遺言をたてに上東門院(彰子)に拒絶され、失意の晩年を送ったと言われる。
 道長・頼通の70年にわたる治世は藤原氏の栄華の頂点とされるも、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など、地方では内外からその安寧をゆさぶる事態が生じていた。
 また、藤原氏繁栄の基盤でもあった荘園の増加は、国家財政を危機的状態に陥らせる状況となっており、頼通は数度にわたって荘園整理令を出すも、効果的な対策は打ち出せないままであった。
 「往生要集」を著し、道長が深く帰依した「源信(恵心僧都)」が寛仁元(1017)年76歳にて入寂、一方で、「末法」の世に入るとされる永承7(1052)年)が近づくなかで、阿弥陀如来にすがり極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、貴族たちは寺院の建立を競った。
 権勢の頂点にあった頼通は、永承7(1052)年3月、道長の別荘であった宇治殿を寺院に改修し、翌天喜元(1053)年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような壮麗な阿弥陀堂が建立された。本殿には仏師定朝の手になる阿弥陀如来坐像が安置され、やがて「平等院鳳凰堂」と呼ばれるようになる。
 治暦4(1068)年、後冷泉天皇が崩御すると頼通は宇治に閉居し、延久4(1072)年に出家する。同年、後三条天皇が白河天皇に譲位し、まもなく崩御した時には、後三条天皇とは東宮時代から対立した頼通だが、その早世を嘆息したという。自身も、延久6(1074)年83歳の長寿をもって薨去する。
 摂関政治の全盛期をともに担ってきた姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで薨去、外戚による「摂関政治」は、やがて白河天皇が譲位した後に始めることになる「院政」の時代へと移ってゆく。
(この時期の出来事)
*1026.1.19/ 太皇太后彰子が出家し上東門院と称する。
*1028.6.21/ 前上総介平忠常が反乱を起こしたため、平直方・中原成道を追討使いに任命する。
*1031.4.28/ 新たに追討使に任じられていた甲斐守源頼信が、平忠常降服を報告する。
*1036.4.17/ 後一条天皇(29)没。
*1039.2.18/ 延暦寺山門派の僧徒多数が関白藤原頼通廷に押しかけ、寺門派明尊の天台座主就任に異議を唱え強訴する。
*1040.40.29/ 京に横行する盗賊・悪僧などの処置について、朝廷で審議する。
*1040.6.3/ 諸国に荘園停止を命じる。(長久の荘園整理令)
TOPへ戻る