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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

人が有るか無いか

2020-07-28

732
「人が有るか無いか」。こういうことは仏教の話のようだけれども、現代資本主義でもそうではないかね。人がいないでしょう。人がおれないような機構になっているでしょう。こういうところに大きな問題があるわけです。


733
現代資本主義においては社会的な階級ということがあるけれども、やはり階級の中にも「人」はいない。階級の中に人間はおらず、階級的英雄がいるわけです。階級的英雄は独裁の英雄ではないでしょうか。そこには個としての人はいない。絶対自由の人間はいない。けれども階級に功績があるのは、わがままな意味の主観的自由を破るところに、非常に厳粛な意味があるのです。

734

つまり言ってみれば「マイホーム」です。資本主義のエゴイズムです。うちの家庭だけが平和になればあとは知らん顔しているという、そういうような個人的自由主義を破るところに、社会的階級というものがひとつの大きな力をもっている。しかしながらその階級のなかに個人はないのです。

 

 

 

735
社会的階級というものは、一応、個人的な自由、エゴ、主観というものを破る意味はある。けれども、主観ではないところの積極的な自由を与える意味は持っていないのです。人は、そういう現実の問題にみな触れているのです。

易往無人

2020-07-28

729
無人という言葉が非常に大事なのです。易往無人の易往というのは自然(じねん)の道理をいう。自然の道理に依るが故に往き易いと。努力で、という意味ではないのです。自然の道理が往き易いのです。つまり往くまいと思っても往かされるのです。

 

730
我々のほうで往こうと思って往くのではないのです。往くことを思う思わないを超えて往かされるのです。道理のはたらきを易往というのです。けれども人が無いというのでしょう。だから無人は大事な言葉です。信心というものは、本願が人の上に成就する。如来が人の上に成就する。人ということが非常に大事なのです。

 

731
本願の成就という場合は、本願は原理ですから、願が信として成就すると。その願は人の上に成就するのです。つまり人が生まれてくるのです。「人が生まれる」ということが教理を超えることなのです。仏法が生きているか生きていないかは教理の有る無しではない。人が有るか無いかです。これは大事なことでしょう。人というものが、法から生まれているか、生まれていないかです。人がいないなら教理があるだけでしょう。

摂取不捨の利益

2020-07-27

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」 

           (『歎異抄』第一章)


 この言葉について、佐野明弘師が、「『念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき』如来が成就し衆生が成就する。如来と私を信心で結ぶのではない」と言われた。
 私は、それまで、やはり私がおって、その私のところに「念仏もうさんとおもいたつこころがおこる」と、そういうふうにイメージしていた。佐野先生のこの言葉にふれて、そうではなかったと知らされた。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、久遠の昔から迷いに沈み行き場を失ってさ迷い続けてきた自身が、初めて生れ、また、その自身を呼び続けていてくださる如来が、初めて生れるのだった。そのような久遠の時間世界が開かれ、久遠の自己が生れることを、「摂取不捨の利益」と言われていたのだと知らされた。

【住岡夜晃法語】

2020-07-20
洗濯する時に料理はできない
作(な)すことは一事である
しかしその中に動くものは全人格である
念仏一つに生きる
それが全人格の動きである時
我らはそれを救済といい信念とよぶ
 
【住岡夜晃法語】

若き求道者の生涯は、28年間でした。

2020-07-06
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