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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

Facebook田畑正久先生より

2021-04-15
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第392回
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第392回
(令和2年12月21日掲載予定)
 医療文化と仏教文化(218)
    二十数年前、母校で医学部新入生に医学入門の一コマを担当していたことがありました。講義の後、教育担当教授が学生に「皆さんは命だけは大事にして下さい」、次いで「一人の医師を育てるのに国民の税金より5千万円かけていますからね」と言われたことが印象に残っています。
    今から60年以上前の米国の名門大学医学部の卒業式で、医学部長が医学生を教育する総コストに対して授業料は「七分の一以下」と概算し、医学生は大きな利益を享受していると指摘して次のように語っています。
    「このような計算は、医師に託したその厚い信義に対して、いつかは諸君が報いてくれるであろうと期待していた人々に、深く頭をたれて感謝の意を表するのもまた当然であることを思わせるに十分であろう」。 そして「いわば諸君は賭けられているのだ」とした上で、「諸君は必ずや自分が受け取ったものを、後に社会へ引き渡す立派な医師であることに多くの人々が賭けているのであるから、どうか諸君、下世話にいう『馬に賭けても人に賭けるな』の実例にならぬように十分に心掛けていただきたいのである」と呼び掛けました。
    医師を養成する大学の卒業式で「馬より劣る人間になるな」と言っているわけです。
    私自身、40歳ごろ新任地に赴任した時、仏教の師からのお手紙の一節に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」という言葉があり、自分の利益だけしか考えていなかったと思いました。これを仏教では餓鬼といいます。間柄に支えられた存在、人間になれてなかった。私になされたご苦労を知る心を全く考慮してない、忘恩の存在であることを指摘されて、「参ったな、南無阿弥陀仏」と懺悔したことがありました。
    仏教は(心が)地獄・餓鬼・畜生の状態を脱して人間になり、そして人間として成長・成熟して菩薩・仏(自利利他円満)になる道を教えているのです

誕生日のお祝いのメッセージをありがとうございました。

2021-03-11
Facebook田畑正久先生のことば
仏教に出遇い、人間として誕生した意味(物語)を受け取ることが出来るようになりました。
中国の善導大師が書かれた「観経疏(序文義)」の中にある—
既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。
『私たちはこの世に生まれ出ようとする時、自分の意志で「生まれたい」と願い、父と母になる人を縁として誕生するのです。つまり、自分の意志が根っこであり両親はきっかけなのです』
誕生日のお祝いのメッセージをありがとうございました。

ヨキヒトの仰せを蒙りて

2021-03-11
facebook田畑正久先生のことば
真宗教団連合から出ているカレンダーの3月の言葉は私の仏教の師:細川巌先生の言葉です。東本願寺から出版されている「今月のことば 2021」東本願寺出版 に文章を書かせていただきました。
細川巌師「私の上にあるものは 全部賜うたものである」
 仏法の基本は「縁起の法」です。この世のものは全て関係性を持っているとの法です。
 仏法に出遇うまでは物事を対象化(私と切り離して冷静に眺める)して客観的に観察し自分にとって利用価値の有無、都合の善い悪い、好き嫌いなどで判断することが常識的思考と考えていました。利用価値があり、得になり、好きで、優れたものを身につけることで、幸福な人生が実現できる、それ以外には考えられないという思いでした。
 事実、同世代の人たちは皆、義務教育を受けて、上級学校に進学したり、職業教育を受けて、各人が頑張り努力して自立する道を目指しました。その過程で学んで身に付けた思考、知識、技術力、体力、知力、資格、経験を拠りどころにして、この世で仕事をすることになりました。
 私は幸い学生時代から聞法のご縁に恵まれ細川巌師のお育てをいただく僧伽との接点を頂いていました。卒業後は外科医としての学びと技術習得の努力をしていました。
 40歳頃、某病院の外科の責任者として仕事を始めた時、尊敬する細川巌師よりお手紙をいただきました。その中に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」という言葉があり、これを目にした時、私の思いは「参ったなー、餓鬼・畜生であった!(人間に成れてなかった)南無阿弥陀仏」でした。
 聞法の歩みの中で、仏法の智慧の視点は、あるがままをあるがままに見る、そして物の背後に宿されている意味を感得していく思考とお聞きしています。よき師を通して聞かせていただく仏の智慧は、私達の思考の拠り所の理性、知性の分別思考とは質を異にする世界でした。
 自己中心の自我意識は、育てられたことを当然のこと当たり前にして、私があれもした、これもしたという思いを心の底に持っていたのです。仏教の知識は増えていたかも知れないが、身の言動は無明の迷いそのものだったのです。
 縁起の法に沿って内省して、歩んできた人生のあるがままを冷静に見る時、両親のお育て、隣近所の人間関係、親戚付き合い、地域社会、学校、高校、大学、先輩後輩、関わった患者さん等々、ガンジス川の砂の数の因や縁によってお育てを頂いていたのでした。仏の智慧で見る時,私と周りの環境は一体です。私が周囲の事象を切り離して対象化する思考が迷いだったのです。一体の思考とは「周囲の事象の声を聞く」思考です。それらは私を支え、生かし、願い、教え、演じさせようと働いていたのです。恩とは私になされたご苦労を知る心です。私のものは何もない、全てご縁による賜物でした、南無阿弥陀仏。
 仏法のお育てをいただき、よき師・よき友の願いに触れ、更にその背後にある念仏の心、法蔵菩薩の本願の心に触れる歩みが聞法の生活でした。人間に生まれながら身の凡夫性は免れませんが、本願の心をいただき、「本当の人間に成ろうよ」と願われ、そして人間から仏へと導かれるのです。
細川 巖 Iwao Hosokawa 略歴

3:3

2020-11-20
Facebook RIZIN YASUDAより
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私がよく思うのは宗教改革というものです。
親鸞でも日蓮でも道元でも宗教改革者です。
こちらのほうが向こう(欧州)の宗教改革より早いのです。
向こうではルターという人がはじめに出ました。
それからフランスのカルヴァンです。
それからスイスのツヴィングリ。
向こうも三人。
こちらも三人です。
数まで合うています。

因位ということ

2021-05-01

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1003
迷いのないところに覚りもない。
限界をおさえないといけないでしょう。
だから捜し回って、捜すことを必要としない境地といいますか、そこに覚りが出現したのです。
法が出てきた。
法が証明されたのです。
捜したり求めたりする必要のない法が証明された。
求めあぐねて、その極限をおさえて、覚ることを通して法が証明された。
もがくのを因位というのです。
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