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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

【死神】 立川談志

2022-01-08

令和3年7月に再生回数が50万回に達しました。ありがとうございます。 このサゲに落ち着いたのは平成7年頃。『あれだけのことをやられたんだから、やっぱり死神に吹かせたいんだよ。死神が怒らないわけないもの』(家元談) 平成17年1月の高座(北とぴあさくらホール)
立川談志「談志半生記」2016/11/26

破天荒な行動や毒舌。落語界の反逆児と言われた落語家・立川談志。江戸時代からの古典落語に革命を起こした。昭和11年東京に生まれた談志は、16歳で五代目柳家小さんに入門。27歳で立川談志を襲名し真打昇進を果たした。しかしその頃から「師匠に教えられたとおり古典落語をやっているだけでは落語はいずれ滅びる」と危機感を抱く。「時代に合わせて落語を変えていかなければならない」というのが生涯を貫くテーマとなった。談志の落語哲学は「落語は人間の業の肯定」である。つまり「人間の弱さや愚かさを認めたうえで、そうした人間らしさを描き出すことこそが落語である」というのである。落語を愛し、生涯通じて理想の高座を求めて続けた半生が語られる。


今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)

2022-01-07
Facebook 永井資久さん曰く
今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)
彼の名を多くの人に知らしめたのは言うまでもなく、大阪万博の「太陽の塔」だろう。当初、私も意味も判らずとんでもない醜悪なものだと思った時期もあった。彼のこの言葉を聞いた時に理解出来たような気がする。
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
ピカソに傾倒し、ダイナミックな作品創りを精力的にこなしていた。よくテレビに出演して「芸術は爆発だぁ〜!」「何だこれは!」などと叫んでおられたのが印象に残っている。作品にはとにかく圧倒される迫力がある。今後ピカソを越えるアーティストとして世界で高く評価されると思う。
偉大なるデタラメ人、岡本太郎氏に敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
大谷大学 #きょうのことば
Facebook 大谷大学さん曰く
本学教員が「伝道掲示板」の解説文を執筆しています。



· 若き日の小澤征爾とシカゴ交響楽団のRCA録音版

2022-01-07
Facebook 伊東 一郎さん曰く、ベートーベンとチャイコフスキーの5番より、春祭が良い。ボストンと小澤の日本公演を思いだした。
Facebook 伊東 一郎さん曰く
今週、思うところあって、小澤征爾のCD爆買い。 1969年にモーツァルトの35番と28番をニューフィルハーモニー管弦楽団と録音したCDは持っていたが、水戸室内管弦楽団とのモーツァルトは、知らなかった。

◎モルガンお雪

2022-01-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1903(m36)年】-2
◎モルガンお雪
*1903.9.30/ 京都祇園の芸妓 加藤ゆきが、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金で、米国富豪 ジョージ・モルガンに身請けされる。
 1903(明36)年9月、祇園の芸妓「お雪」が、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な落籍料により、ジョージ・デニソン・モルガンに身請けされ、翌1904(明37)年1月、横浜領事館で結婚式をあげる。ジョージは、モルガン財閥の創始者J・P・モルガンの甥で、当時30歳の彼も大富豪であった。
 モルガンお雪は本名 加藤ユキ、芸妓名は「雪香」として、京都縄手新橋上ルの外人専用のお茶屋 「小野亭」で芸妓をしており、1901(明34)年、初来日したアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められた。ジョージは、お雪が求婚を承諾するまでの4年間に3度も来日した。
 当時、芝居小屋「千本座」を営んでいた牧野省三(のちに「日本映画の父」と呼ばれる)は、祇園の茶屋遊びを重ねていて、芸妓だったお雪と懇意になった。牧野は、お雪に「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を打ち明けられた。省三は「4、5万円くらい吹っかけてみろ」と冗談でいったところ、数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しが、新聞紙上に踊った。お雪身請けの派手な記事のせいで、省三はお雪と別れなければならなくなったが、省三はこの切ない恋物語を、「モルガンお雪」の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせる。
 お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、ジョージとアメリカに渡るが、当時の排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。1905(明38)年、ジョージとともに一時帰国するが、日本でも「金に目がくらんだ女」などと、世間の好奇の目は変わらなかった。2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。
 1915(大4)年、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その時お雪は34歳だったが、その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るも、米国籍を剥奪され無国籍者となる。そのまま欧州フランスで悠々自適の生活を送る。
 1916(大5)年、陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダールと恋に落ち、マルセイユで同棲する。結婚はせず、受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やすが、遺産をモルガン家に没収される恐れがあるため、タンダールと再婚はしなかった。1931(昭6)年、タンダールが心臓麻痺で死去、ニースの別荘に移る。
 1938(昭13)年、第2次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化したため、家族の世話もあり京都に帰る。戦局が逼迫すると、モルガン家からの送金も途絶え、無国籍のお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられるなど、苦難に遭遇した。日本敗戦後、71歳でカトリックの洗礼を受け(洗礼名テレジア)、以後はいちカトリック信者として京都紫野 大徳寺門前の小家で隠棲、1963(昭38)年、急性肺炎により死去。享年81。
 お雪は、日米欧にかけて数奇な運命を生き抜き、その生涯は何度も著作物や舞台演劇で取り上げられた。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。
 「からゆきさん」は、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷/1974年」によって、戦前で途絶えていた呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。
(この年の出来事)
*1903.4.13/ 文部省は、小学校令の一部改正により国定教科書採用に踏み切る。
*1903.6.-/ 内村鑑三が「聖書之研究」や、万朝報で日露非開戦論・戦争絶対反対を論じる。
*1903.7.5/ 幸徳秋水が「社会主義神髄」を出版する。
*1903.10.6/ 小村寿太郎とローゼン駐日ロシア公使とが、満州の権益をめぐり日露交渉を始めるも、双方譲らず不調に終わる。

林家三平が本音で語る、笑点から旅立つ理由 (msn.com)

2021-12-20
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