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ちょい話【掲示板】

ちょっと気になる言葉(お寺の掲示板等より)

Retweeted 三島由紀夫bot (@MISHIMA_ESSAY):

2022-05-15

Facebook 佐々木 信雄さん曰く

Retweeted 三島由紀夫bot (@MISHIMA_ESSAY):

どんなに醜悪であろうと、
自分の真実の姿を告白して、
それによって
真実の姿をみとめてもらい、
あわよくば
真実の姿まで愛してもらおうなどと考えるのは、
甘い考えで、
人生をなめてかかった考えです。
 
-不道徳教育講座-

Retweeted 遠藤周作名言bot (@enshu_bot):

2022-05-14

Facebook 佐々木 信雄さん曰く

Retweeted 遠藤周作名言bot (@enshu_bot):

「強情、無情な性格」は
 
いわば後ろ盾があればこそ見せることができるのであって、

こういう性格の人間は

孤立すると急に弱気になるものだ。 ―イエスの生涯
Retweeted Nietzsche
Retweeted Nietzsche (@Nietzsche_Words):

善悪において一個の創造者となろうとする者は、

まず破壊者でなければならない。

そして、いっさいの価値を粉砕せねばならない。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、
ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者であり古典文献学者
又、Nietzscheをニイチェと表記する場合も多い。

永劫回帰

ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた。

永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいて、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方である。

これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうキリスト教的世界観の悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学道徳科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。


超人

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。

すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。


古代インド思想

ニーチェは『ヴェーダ』『ウパニシャッド』『マヌ法典』『スッタニパータ』などの古代インド思想に傾倒、ゴータマ・シッダールタを尊敬していた。

度々、忌み嫌う西洋キリスト教文明と対比する形で仏教等の古代インド思想を礼賛し、「ヨーロッパはまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」と語っている。

オシムのことば

2022-04-19
『讀賣新聞』2022.05.03朝刊

『大無量寿経』下巻       (岐阜黒野・真宗本願寺派香焼寺様) — 場所: 香焼寺

2022-05-02
Facebook 荒山 淳さん · 4月28日 6:07 ·

この言葉は「本願のはたらき」を分かりやすく伝えて下さってると思うのですが、

2022-05-01

Facebook 下津 悦子さん曰く


同朋の皆さまへご相談。
この言葉に対して「如来の本願を軽く見ている。失礼だ、怒る人がいます。

確かに、ともするとリリカルな言葉の雰囲気に意味を深く追求せず、なあなあのままた頷いてしまいそうな危うさがある事は否めません。

前後の文章を読めば、この言葉が持つ意味も深く理解していけるのではないかと考えるのですが、それを於いても私はこの言葉は「本願のはたらき」を分かりやすく伝えて下さってると思うのですが、なかなか話が噛み合わないのです。
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