闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
クアッド会合出席の意向 豪野党勝利、政権交代へ
【シドニー共同】オーストラリアで21日行われた下院総選挙で、アルバニージー氏が率いる最大野党、労働党がモリソン首相の与党、保守連合を破り勝利した。2013年以来約9年ぶりの政権交代となり労働党は第1党となることが確定したが、単独で首相を選出できる過半数の76議席を確保できるかどうかは不明だ。22日も開票作業が続いた。
労働党党首のアルバニージー氏は23日朝に首相に就任し、24日に東京で行われる日米豪印4カ国の協力枠組み「クアッド」首脳会合に出席したい意向だ。
選挙では、地球温暖化対策を訴える女性中心の環境連合「ティール無所属」が躍進した。
キューバ危機と呼ばれた13日間
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私はカモメ・・・。
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総理就任後、初めて
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◎ガガーリン少佐 人類最初の宇宙飛行
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闘いの転機(戦いの前と後)
「ワレニ追イツク敵機ナシ」:彩雲艦上偵察機
第2次大戦中、「浮かぶ航空基地」こと空母を実戦で使用したのは、アメリカ、イギリス、日本の3カ国のみであった。この空母には、搭載できる艦上機の数に限りがある。そのため、1機種がいくつもの任務をこなせれば、搭載する機種が減らせるうえ、必要に応じて、それぞれの任務に従事する機数を容易に増減できる。
このような発想から、各国とも艦上機は、水平爆撃機兼雷撃機、戦闘機兼急降下爆撃機といった兼用できる機種の開発に余念がなく、ましてや偵察機ともなれば、それはどれかの機種の副次的な任務にしてしまえばよい、ぐらいに考えられていた。
例えばアメリカ海軍では、ダグラスSBDドーントレスやカーチスSB2Cヘルダイヴァーといった艦上急降下爆撃機が、また、イギリス海軍ではフェアリー・ソードフィッシュ艦上攻撃機が、それぞれ偵察任務に従事するケースが多かった。また、大戦中期以降になって機載レーダーやカメラ、長距離通信機の性能が向上すると、1人乗りの艦上戦闘機であるヴォートF4UコルセアやグラマンF6Fヘルキャットなども、容易に偵察任務に携われるようになった。
だが日本海軍は偵察にことさら力を入れており、中島飛行機に対して、高速の艦上偵察専用機を開発するよう要請した。十七試艦上偵察機と呼ばれたこの機体は、太平洋戦争初期の1942年6月に試作が始まり、1944年中頃に艦上偵察機「彩雲(さいうん)」として制式化された。
2000馬力級の誉二一型空冷エンジンを搭載し、究極まで空気抵抗を削減した「彩雲」は、試験飛行時に時速約640キロという当時の日本海軍機の最高速を記録。量産機になってからやや性能が低下したが、それでも高速機であることに間違いなかった。
「ワレニ追イツク敵機ナシ」。これは、偵察に出撃した「彩雲」が敵戦闘機に追撃されたものの、見事に振り切って虎口を脱した際に発した報告電文と伝えられる。
だが「彩雲」が部隊配備された時期は、すでに日本空母で実戦に参加可能な艦が払底した状態だった。そのため本機は、ほとんど空母運用には供されず、陸上基地から発進して偵察飛行を実施した。特に日本周辺の洋上偵察、沖縄方面への特攻機の誘導やその戦果確認などに活躍。斜め銃を搭載した対B-29用の夜間戦闘型も開発されたが、これは実戦には間に合わなかった。
戦後、アメリカは鹵獲(ろかく)した日本機をテスト飛行に供したが、同国製の高品質の燃料とエンジンオイルを使用した「彩雲」は、最大速度時速約694キロという高性能ぶりを発揮。アメリカ側技術者を驚かせたという。
96式艦上戦闘機という傑作機を手に入れた日本海軍は、同機に続く世界をリードする性能の艦上戦闘機の開発を求めた。これが12試艦上戦闘機で、1937年に三菱航空機と中島飛行機に試作の要請が出された。
だが、96式艦戦よりもいっそう厳しくなった海軍側の要求に、中島は途中で辞退。三菱でも、96式艦戦をものにした堀越二郎らですら、前作よりさらにハードルが高くなった要求性能に頭を抱えることなった。
こうして、再度堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装を望むもので、この全てを満たす要求に対して、堀越が何かを犠牲にしなければならないことを示すと、防御能力がそれにあてられた。つまり防弾関連の重量を削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。
さらに零戦の重量削減策として有名なのが、フレームに多数の孔(あな)を開けるという工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたという逸話だろう。
また、20mmという当時としては大口径で威力のある機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方の機関銃を巧みに使うにはパイロットの腕が大きくものを言った。
かくして1939年4月1日に試作1号機が初飛行を行い、1940年7月に零式艦上戦闘機11型が制式採用された。そして同年中に中国での戦闘に出撃し、その驚異的な性能を発揮して中国空軍機を片端から撃墜。このとき、現場部隊から防弾についての要望の声も一部聞かれたが、勝ち戦だったため立ち消えになってしまった。
太平洋戦争が始まると、零戦の主力は21型となっていた。同時代のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイアなどは、熟練パイロットが操る零戦の巧みな空戦術によってバタバタと撃墜された。それまで、航空技術の後進国と思われていた日本の戦闘機に太刀打ちできないアメリカやイギリスのパイロットのみならず航空機メーカーも、「ゼロファイターの脅威」の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めることになった。
戦前から零戦で訓練を重ね、中国で実戦を経験してきた日本のパイロットの技量はそれこそ神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって零戦は恐怖の的であった。
しかしもちろん、連合軍側も強敵である零戦の研究を怠っていたわけではない。不時着した機体などを徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させたのである。また、零戦よりも大馬力のエンジンを積んだグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイアの出力向上型の登場で、大戦中期になると零戦の優位もかなり揺らぐようになっていた。
このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、前線部隊ではこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後の型で元の丸型に戻された。
零戦の圧倒的な優位が揺らぎ始めたのは、ベテランパイロットの不足が目立ち、連合軍戦闘機の性能向上や新型機が登場するようになった1943年頃からである。一方で零戦も、21型や32型から新しい型への移行が始まることになる。
1930年代中頃、日本海軍は、まだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していた。しかし1920年代末から1930年代のこの時期にかけて、航空技術は世界的に急速な進歩を遂げており、複葉機では近々に旧式化することが明白だった。
そこで日本海軍は、近代的な次世代の戦闘機を求めて9試単座戦闘機を発注することにし、試作の要請が三菱航空機と中島飛行機に出された。試作機の完成は1935年で、審査の結果、三菱案が採用となった。
こうして誕生した96式艦上戦闘機は、続いて零戦を手がけることになる堀越二郎の設計で、海軍の制式機としては初の全金属製低翼単葉機だった。
また、96式陸上攻撃機と共に、日本機として初めて沈頭鋲(ちんとうびょう)を全体に使用した。小さな鋲の頭だが、数がまとまると大きな空気抵抗となる。だが、頭が飛び出していない鋲の使用で、この空気抵抗を解消でき、性能の向上につながった。加えて、日本製実用機種として初めてフラップを採用している。
主脚については、開発時期的に引込脚も実用化されていたが、脚部構造の重量増加を避け、さらに最前線の未舗装滑走路でのラフな運用を考慮して、あえて固定脚とし、フェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図った。
96式艦戦は開放式コックピットを備えていたが、転覆時などにコックピットが潰されてパイロットが死傷する恐れがあった。そこで、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティー・バーがコックピットの後方からせり上がるという工夫が施された。機体の転覆時はこのバーが先に接地して、コックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けである。
1937年8月22日、日中戦争が勃発したため作戦行動中の空母加賀に96式艦戦が送り込まれた。そして9月4日に中国軍のカーチス・ホークを3機落とし、本機による初撃墜を記録した。さらに同年12月9日には、日本航空史に残る「片翼の帰還」が、樫村寛一(かしむらかんいち)三空曹の96式艦戦によってはたされ、本機の優秀さを広くアピールすることとなった。樫村機は空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突してしまい、左の主翼の外側を大きく失ったものの、巧みな操縦によって帰還に成功したのである。
その後、零戦が艦上戦闘機として制式化されても、同機の不足を補うために一部の空母での運用が続けられたが、1942年頃には全機引き揚げられて訓練など二線の任務に就いた。96式艦戦は、出現した時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機であった。
なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼んでいた
先に本連載で紹介した2式水上戦闘機は、実は、とある別の水上戦闘機の開発が遅延したことによる、リリーフ的立場の機体であった。その本来の水上戦闘機とは、川西航空機が開発した強風(きょうふう)である。
大出力エンジンが必要だったため、雷電と同じ火星エンジンを搭載し、自動空戦フラップという空戦時のフラップ調整を自動で行う機構が組み込まれた、きわめて意欲的な設計の機体であった。しかし2式水上戦闘機がすでに実戦配備されて相応の成果をあげており、戦局は水上戦闘機を必要としない状況になりつつあったため、わずか97機の生産に留まった。
そこで川西は1941年12月末、強風を、引込脚を備える局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出した。当時、海軍は新型機雷電の不具合の調整と、零戦の後継機問題で悩んでいたため、既存の機種からの改修で実用化が可能と思われたこの計画を承認した。しかし当時の川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしての評価こそ高かったが、陸上機に関しては経験がやや浅く、海軍内部の技術者の中から計画を懸念する声も聞かれた。このような状況を受けて、改めて審査の席が設けられ、その結果として計画にゴー・サインが出されている。
当初の予定では、できるだけ速く実用化するため強風の設計を極力流用することになっていた。しかしエンジンを火星からより高出力の誉(ほまれ)に換装したことなどにより、各部に設計変更が必要となり、外観こそ似ているものの別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の強風譲りの中翼は変わらず、そのため主脚が長くなっている。
こうして完成した機体は、紫電11型とされ、紫電(しでん)と略して呼ばれた。
だが紫電は、自動空戦フラップや引込脚の不調、そして何よりも、プルフィーングが足りない誉の不具合に悩まされ、実戦部隊で高い評価を得ることができなかった。このことについて、当の川西も満足していなかった。というのも、紫電には素質として良い点もあったからだ。
そこで、水上機だった強風に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな誉に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性も向上し、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、紫電よりも部品数を減した紫電21型が開発された。そしてこの機体は、紫電改(しでんかい)と呼ばれることになった。
紫電改はきわめて優れた戦闘機で、パイロットの腕さえともなえば、零戦や雷電では荷が重かったグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦うことができた。特に、紫電改を優先的に配備された第343海軍航空隊は、本土防衛に参加して大活躍をはたしている。
かくして紫電改は、戦争末期の日本本土防空戦の勇戦をもって、海軍航空隊の戦いに最後の煌(きらめ)きを添えたのである。
なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。
戊辰戦争で使用された「ガトリング砲」は、どのくらい敵を殺傷したのか?
戊辰戦争一番の激戦地といったら、皆さんはどこを思い浮かべるだろうか?
白虎隊の悲劇があった会津、同じく少年たちが活躍した二本松、藩主不在のまま戦いとなった白河、戊辰戦争最後の戦いの舞台となった箱館、厳密にいえば箱館の五稜郭は城郭ではないのだが、これらの激戦地では城が落ちている。
だが、同じ城が2回落ちている場所がある。どういうことだ? と思われるかもしれないが、一度落ちた城を奪還した後に戦い、再び城を手離さなければならなくなったのが、長岡藩である。
戊辰戦争の際、長岡藩は旧幕府側にも新政府側にもつかない、つまり中立を打ち出した。中立を保つためには強力な軍事力が必要である。そのため長岡藩の家老であった河合継之助(かわいつぎのすけ)は、大量の兵器を謎の外国人エドワルド・シュネルから買い付けた。謎というのは、出身地や生没年などの詳細が不明だからだ。
継之助が彼から買ったものの中に奇妙な兵器があった。それが当時発明されたばかりのガトリング砲であった。
ガトリング砲と呼ばれているが、大砲ではない。連発銃を6本円形に繫げたもので、ハンドルを回すと連続して弾を発射することができ、1分間に150発から200発撃つことができた。当時の兵士が1回の会戦で200発の弾薬を用意したといわれているから、それをわずか1分で撃ってしまうことになる。
ガトリング砲は、アメリカを二分した南北戦争中の1862年、アメリカの医師リチャード・J・ガトリングによって発明された。彼は、マシンで動く銃を作れば、その分戦場に行く兵士が減り、負傷する者も命を落とす者も減ると考えていたという。しかし、この新しい兵器は北軍にも南軍にも正式採用されることなく南北戦争は終結してしまう。
その後、起こった普墺(ふおう)戦争でも活躍することなく、慶応3年(1867)、横浜に2門陸揚げされたものを、継之助が1門5000両、計1万両で買い付けたのだ。この当時インフレが進んで1両が1万円程度だったとはいえ、1億円もの巨費を投じたことになる。
継之助は、中立を保とうとしたものの、新政府軍がこれを許さず、慶応4年5月10日、長岡藩は新政府軍に対して引き金を引いたのである。ミニエー銃を手に持ち、フランス式で訓練された長岡藩軍に対して攻めあぐねていた新政府軍は、とんでもない行動に出た。城の外堀代わりであった信濃川を渡河したのである。当時は旧暦を使用していたから、5月といえば、今の6月、つまり梅雨の真っ最中で、この年は特に長く、川は増水しており川を渡るのは無謀と思える行為だった。
思わぬ敵からの攻撃に長岡城下はパニックに陥った。敵の急襲に継之助は、秘密兵器ガトリング砲を引いて駆けつけ、信濃川の近く大手門の土手を楯にして乱射したという。しかし、継之助の奮戦むなしく落城してしまう。7月25日に八丁沖の戦いで城を奪還したものの、その4日後、再び落城。継之助も負傷し、会津へと落ちていく途中で人生の幕を閉じた。
ガトリング砲が活躍したのは5月19日の攻城戦の時だけで、その後の記録はない。明治2年(1869)の宮古湾開戦で、旧幕府軍の回天に対してガトリング砲による攻撃が行われたため、回天は新政府軍の軍艦甲鉄に近づくことができなかった。このガトリング砲が、継之助が購入したガトリング砲であったがどうかは不明である。ただ、明治元年9月25日に長岡藩が降伏した時に没収された武器の中にガトリング砲は含まれていなかったという。
ゲベール銃とは1670年にフランスで採用され、1777年にオランダで軍用として取り上げられた銃のこと。弾を銃口から装填(そうてん)する前装銃であるが、写真のゲベール銃をよく見て欲しい。銃には必ずあると思われる、あるパーツがない。これがそれまで日本で使用されていた火縄銃と洋式銃の戦法の違いを端的に表している。この銃には銃口の上部に突起がない。上部の突起は、標的を狙う時に照門になり、これを使って照準を合わせる。
日本では、目標物に照準を合わせて撃つ方法が尊ばれた。これは、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が日本ではほとんどが産出しなかったためだろう。火薬の製造量に限りがあるため、一発必中、例えていうならばゴルゴ13のような腕が必要されていたのである。
一方、硝石が簡単に手に入るヨーロッパでは、火薬を節約しなくてもよかった。鉄砲隊が密集し、前列に並ぶ膝撃ちの兵の後に立ち撃ちの兵が並んで号令に合わせて打ち放つ。花火に使用されることが多い黒色火薬だと、先が見通せないほどの煙で幕が張ったようになる。19世紀末のスーダンを舞台にした映画「サハラに舞う羽根」には、「阿蘭陀直伝高島流砲術巻」の中に描かれている光景がそのまま登場するので、参考までにご覧になってみてほしい。
先の見えないほどの煙幕の中から飛んでくる弾は、敵方は避けようにも難しいため、あまり狙撃に優れていない撃ち手でも敵にダメージを与えることができた。ひらたくいえば「下手な鉄砲数撃てば当たる」。狙撃手を育てるのには時間がかかるが、この方法だと一通り鉄砲の扱いを覚えさえすれば戦力になる。もっとも狙撃しようにもゲベール銃の照準制度は低かった。
火縄銃もゲベール銃も前装式なので弾と火薬を入れてから棒(朔杖/かるか)で奥まで押し込むまでは両者とも一緒だが、火縄銃は火皿と呼ばれる部分に少量の火薬を入れ、引き金を引くと火縄が火皿の火薬に点火し、そこから銃口に入れた火薬へ火が点いて弾が飛び出る。いつでも使えるように火縄に火が点いたままにしておくにはコツがあり、慣れないと難しい。
一方ゲベール銃の方は、引き金を引いて火打石で出た火花で火薬に点火するので、手順が少ない上、扱いも簡便だった。燧石(すいせき)式ゲベール銃に使われていた火打石だが、日本では雨が多く、湿気も高いのでうまく火花が散らないことがある。また、まねして作ろうにも良質な石を見つけることが難かった。やがてさらに簡便な管打式のゲベール銃が発明されるとすぐに日本でも使用されるようになり、国内でも製造されるようになって一気に広まった。
戊辰戦争ではもっと新しい形式の銃が活躍したが、それでもかなりの数が使用されていた。実は旧式ならではの利点があったからだ。最新式のスペンサー銃などは専用の薬莢(やっきょう)式弾丸が必要で、銃があっても弾丸がないと使用することができない。火縄銃やゲベール銃は銃口に入れば弾でなくても発射することができた。その証拠に戦国時代の戦場の遺跡から火縄銃の弾として使用されたのではないかと思われる石などが見つかっている。まさか、戊辰戦争で石が弾丸の代わりに使用されていたとは考えにくいが、弾丸に使われる鉛は融点が低いため、丸い弾ならば簡単に製造することができた。実際に戦場で製造していたという記録が残されている。
俗説ではあるが、旧幕府軍が新政府軍に敗れたのは、使われた銃が戦国時代に日本に伝わった古い形式の火縄銃が多かったからだという。では、本当に火縄銃は戊辰戦争で使用されていたのだろうか。
火縄銃は寛永14年(1637)に起こった島原の乱が翌年終結すると、兵器として活躍する場面はほとんどなくなった。これ以降従来は火縄銃関係の産業は衰退していったと考えられていたが、近年堺市で鉄砲鍛冶をしていた家から資料が発見された。これによると江戸時代を通して数は少ないが新調や修理などもあり、これまで考えられていたよりも使用が盛んであったことが明らかになった。
それでも平和な世の中では銃はあまり使用されることはない。農民たちが鑑札を受けた上で猟をする程度だった。それが再び注目されるようになったのは、江戸時代も後半になり、日本近海を外国船がうろうろし始めたからだ。
文化5年(1808)8月、長崎港にイギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽って入港する事件が起こる。だまされたとはいえ、やすやすと侵入を許した責任を取って長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)が切腹、警護の当番であった佐賀藩の藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)も処分された。
こうした事態を憂いて、西洋の火器を入手し、広めようとした人物がいる。長崎の町年寄高島秋帆(たかしましゅうはん)だ。町年寄の仕事のかたわら蘭学を学び中でも砲術に通じてオランダからゲベール銃などを取り寄せるほどだった。
江戸時代日本は鎖国していたといわれているが、実際にはオランダを通じていち早く外国の情報を入手しており、当然隣の大国清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを幕閣などは知っていたという。オランダ人からそのことを知った秋帆は清が負けたのは砲術が未熟であったからだとし、我が国の海防に西洋流砲術を取り入れるべきだと幕府に上書。これが受け入れられ、幕府関係者を集めて徳丸原で天保12年(1841)5月に西洋流砲術を披露した。
幕府は西洋流の採用を決めるが、保守派の反対に合い頓挫。しかし、嘉永6年(1853)6月にペリー艦隊が来航すると事態は一変する。軍事力に圧倒されて外国との条約を結ばざるを得なくなったからだ。軍備の違いを見せつけられ、軍事力の強化を痛感した幕府や諸藩は欧米諸国から争うように洋式銃を購入。しかし、洋式銃は高価で数多く購入することは難しかった。
手先の器用な日本人は、洋式銃の製造を試みて成功したのだが、大量生産には至らなかった。もしかしたらそれよりも簡単で安価に大量に銃をそろえる方法が生み出されたのも少しは影響していたのかもしれない。実は、国内にあった火縄銃を改良して洋式銃のようにしたものが造られるようになったのだ。火縄銃は火縄を用いて点火し発砲する。火縄は雨が降ると火が消えてしまうなど扱いが難しい。これを撃鉄(げきてつ)を落とした摩擦熱で点火する方法に変えた。こうした改良銃を「菅打ち火縄銃」(かんうちひなわじゅう)という。火縄銃は銃口から弾を入れるが、これを尾栓から詰める方法に改良した火縄銃もあった。
もっとも、軍備を増強するにあたり火縄銃をその持ち主ごと徴発することもあったというから、戊辰戦争で一体どれくらいの火縄銃が使用されたか記録はないが、立派に役目を果たしていたようだ。
発砲事件や、刑事ドラマなどで、残された弾丸から「この銃は以前の〇〇事件で使用されたものと同じ」といわれるのを目にしたことがあるだろう。ではなぜ、銃から発射された弾丸だけでそんなことがわかるのだろうか。
現在使用されている小銃や拳銃の銃身の内側には普通4本から6本ほどの溝が彫られ、この溝は銃口から見ると傾斜が付いた螺旋になっている。弾を発射する時に火薬の爆発によって生じるガス圧で弾丸が膨張しこの溝に押し付けられながら銃身内を進む。そのため、発射された弾丸には回転が加えられるのだ。
この時に弾丸には溝に押し付けられた時の傷が残る。溝は機械で同じように作っても弾に残る傷は1丁ごとに異なるという。回転しない弾は空気抵抗や引力の影響を受けてすぐに下へ落ちてしまうため、あまり遠くまで飛ばないし、命中率もあまり高くはない。地球上で生活している限り、空気抵抗や引力は必ずついて回る問題なのだ。
銃の内側に刻まれている溝のことをライフルといい、銃が誕生した後の比較的早い時期から、ライフルを刻んだ銃は存在したといわれている。だが、円形の弾だと、この溝にうまく食い込ませることができなかったり、弾を装填するのに時間がかかったりして、実用的ではなかった。
それを、実戦に耐えるものに改良したのが、フランスのクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉だ。1846年にそれまでの丸い弾を、俗に椎の実弾とよばれる先が尖った円柱形に成型。この銃弾の底の部分には空間を作りここに栓がしてあった。初期の栓は木製であったらしいが、後には金属に代わった。
この弾丸を銃口から入れて槊丈(かるか)で押し込むと栓がライフルにうまくはまり込む上、火薬の爆発で生まれた圧力によって弾丸が内側に彫られた溝にしっかり密着し、回転しながら勢いよく飛び出す。この弾の誕生によって、命中率と有効射程距離が格段に向上した。
なお、この椎の実弾であるが、回転を加えないと尖った先端部分がまっすぐに目標に向かって飛ばず、思ったような効果を得られなかった。空気抵抗という見えない壁を破るには流線型と目にも止まらないスピードの回転が必要だったということだろう。
ミニエーが発明したこの弾丸を撃つための銃がミニエー銃である。ミニエー弾とミニエー銃は一世代前のゲベール銃に比べると格段に有効射程距離が延び、命中精度も一説によると3倍以上になったという。
1851年にイギリスで採用されるとヨーロッパで一気に広まり、日本では文久3年(1863)ごろから輸入され、国産も試みられた。なお、この後、さらに改良を加えた前装式のライフルがいくつかあるが、日本ではライフリングされた前装銃のことを全般にミニエー銃と呼んでいる。弾の装填の効率化を図って開発された後装銃や、まとめて弾を装填できる連発銃も戊辰戦争の時点で日本に入って来ていたものの、銃そのものがミニエー銃に比べて高価であったことや専用弾丸の入手の問題もあって、それほど多くは使われていない。戊辰戦争もっとも広く一般的に使用されていたのは、前装式ライフルの「ミニエー銃」だったのだ。
データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)
ちょうど400年前の今日、イエズス会士・カミロ・コンスタンツォ神父が宇久島で捕らえられました。
Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く
ゼレンスキー大統領の妻であるオレーナ・ゼレンシカが、
ゼレンスキー大統領の名演説を手がけるスピーチライターは誰なのか?
Facebook Courrier Japon / クーリエ・ジャポン さん曰く
ついに英紙「オブザーバー」がその正体に迫った。
ルイス・フロイスが記録したキリシタン時代の復活祭
Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く
日本国自衛隊
*1960.1.19
Facebook 佐々木 信雄さん曰く
共同訓練を実施しました。
自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。
Facebook 防衛省(Japan Ministry of Defense) さん曰く
Facebook 防衛省(Japan Ministry of Defense)さん曰く
闘いすんで 陽が暮れて・・・
硫黄島からの帰還です。
この度、ご帰還された英霊は14柱。
帰路の自衛隊機には14人分の席を用意されました。
英霊にとっては77年ぶりのご帰還。
安らかに帰れるようにと自衛隊員達は隣の席の骨箱に、優しい手付きでシートベルトを着けました。
米軍の火炎放射器等で塞がれた地下壕で発見された英霊は、家族から届いた手紙の束を握りしめたままの方々もいます。
『お父さんお元気ですか。僕も元気で毎日学校に行ってべんきょうしています…………』
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程
1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着
夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の
フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。
2月2日 記者会見
ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン
へのものだった。
2月8日 午後7時30分 板付着
那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ
ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。
マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを
ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。
滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、
ドライブなどを楽しむ。
ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の
技術指導を行う。
夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン
ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。
2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ
ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、
ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。
2月14日 岩国から大阪へ
2月16日から19日まで
マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く
ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。
2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国
真宗大谷派の取り組みについて
「全戦没者追弔法会」の和讃
【4/2全戦没者追弔法会】
【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)
政局について
<独自>決選投票での共闘 岸田、高市両陣営が正式合意
「政治のプロ」に聞く新政権人事予想!
自民党総裁選はあす29日、投開票が行われる。河野太郎行革担当相と、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相が激しく競り合い、野田聖子幹事長代行が追いかけている。
事実上、上位3人の三つどもえだが、新総裁・新首相次第で、政権中枢の布陣は大きく変わりそうだ。
中でも、党の「人事とカネ」を握る幹事長と、政権のスポークスマンである官房長官の人事は注目される。
果たして、自民党は一致結束して衆院選に突入できるのか。
永田町をウオッチする「政治のプロ」に聞いた。