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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

1960年

2021-04-18
○6月「安保反対全学連デモ 国会構内に突入」「樺美智子さん デモの最中に死亡」
  6月15日 安保阻止最大のデモが国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。
この数日後、安保條約は参議院の議決のないまま自然成立した。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「後楽園球場には平和な民衆が五万と居る」とつぶやいたとか。
Facebook佐々木信雄さん曰く

戦艦USSミズーリ号(BB63)の初代艦長ウイリアム M.キャラハン大佐

2021-04-16
1945年4月11日の日本軍の攻撃で特攻機に右舷を体当たりされたが、攻撃した日本軍のパイロットを名誉ある水葬にしたことで知られている。

Facebook 鈴木真人さん曰く



戦艦USSミズーリ号(BB63)の初代艦長ウイリアム M.キャラハン大佐は、1945年4月11日の日本軍の攻撃で特攻機に右舷を体当たりされたが、攻撃した日本軍のパイロットを名誉ある水葬にしたことで知られている。
250キロ爆弾は不発で死傷者はいなかったが、日本軍パイロットの上半身が甲板に飛び込んだ。キャラハン大佐はその死体を甲板から下に降ろすことを命じ、一部乗組員の反対にもかかわらずその死を弔った。
乗組員は日本海軍の赤い太陽と16本の光線をあしらった軍艦旗を縫い合わせて作り、若いパイロットを覆った。合衆国海軍のしきたりでは、水葬は弔銃発射班とラッパ員、そして棺添人から成っていた。
空襲の翌日、12日9時、ラッパ員の吹奏の中、弔銃が3発空に向け空砲が発射されると従軍牧師ローランド・スミス大尉の「彼の遺体は海の深みに委ねられる」ということばとともに葬られた。
1942年の第三次ソロモン海戦では、ノーマン・スコット少将を初め多くの人々が戦死したが、重巡サンフランシスコに座乗していたダニエル J. キャラハン少将(死後)は彼の兄だった。
また奇しくも同海戦でガダルカナル島の飛行場砲撃部隊を指揮した阿部弘毅中将の弟は、バリ島沖海戦で武功を挙げたが、不運にも空母信濃を回航中沈めた阿部俊雄少将だった。

東久邇成子さま

2021-04-16

Facebook 永井 由紀夫さん曰く



昭和天皇と良子さまの第一子で、
御結婚前は照宮成子内親王
皇族の東久邇家へお嫁入りされ、
戦後は臣籍降下で平民として苦労に苦労を重ねられ、
5人の幼い子どもを残して35歳の若さでガンで亡くなられたお方です。
ご学友だった酒井美意子さんは
「学習院の錚々たる御家柄のプライドの高い女生徒たちが『このお方には敵わない』と敬愛したプリンセスの中のプリンセス」
「戦後の苦労の中でも輝きを増していった稀有なお方」
と語っています。
生まれた時は臣民はもとより良子さまのお母様までガッカリしましたが、
昭和天皇だけが
「女の子は優しいからいいね」
と仰いました。

アンネとオードリー

2021-05-01
〔アンネ・フランクとわたしは〕同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。
ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。

Facebook永井 由紀夫さん曰く


オードリーもアンネも同じ1929年生まれ。オードリーは5月4日ベルギーのブリュッセルで生まれ、アンネは6月12日ドイツのフランクフルトアムマインで生まれ2人の誕生日は半月の差。
有名な話ですよね チャップリンとヒトラーも同じ歳4日差でしたよね
そして1939年、2人が10歳の時に第2次世界大戦が勃発。男爵の称号を持つオードリーの母は彼女を連れて中立国であるオランダ、アルンヘムに連れ帰ります
二人の魂は同じ時間 同じ場所を共有し始めます   
「ナチスに関しては,聞いたり読んだりする恐ろしいことを割り引いて考えてはいけません。それは想像をはるかに超える恐ろしいことなのです。」オードリー  
オードリーは一九四七年にオランダ語でのゲラ刷りの段階で『アンネの日記』を読んでおり、その時のことを「涙が洪水のように流れた。わたしは半狂○状態だった」とふり返っている
日記に書かれていた事は まさしくオードリーが戦時下で経験した事そのままだった
「〔アンネ・フランクとわたしは〕同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。二つの部屋から一歩も外へでられず、日記を書くことしか自己を表現する手段を持たなかった思春期の少女。彼女が季節のうつろいを知る方法は、屋根裏の窓から一本の木をのぞき見ることだけだった  
「太陽の光と雲ひとつない青空があってそれを眺めていられるかぎり、どうして悲しくなれるというの?」 アンネ  
オードリーは『アンネの日記』の次の一節を好きで暗誦していたというこの一節は「アンネ・フランクが死の収容所に送りこまれるわずか六ヶ月前の一九四四年に書かれた」
「わたしは屋根裏へ行って、床のお気に入りの場所から、青い空を、枝にくっついた小さな雨粒が銀色に輝いている葉の落ちたクリの木を見あげる。カモメやほかの鳥たちが風に乗って滑空するのが見える。これがあるかぎり、わたしは生きてそれを見ることができる。この日光と雲ひとつない青空が続くかぎり、わたしは不幸になれない……是があるかぎり、そしてそれはいつまでも続くだろう、すべての雀たちに慰めがあることをわたしは知っている」アンネ
ジョージ・スティーヴンスの頼みで、アンネの父親のオットー・フランクが、オードリーを説得してアンネの役を引き受けてもらうべく、チューリッヒの自宅からビュルゲンシュトックへやってきた」
オードリーはこの時撮った写真をお守りとして『アンネの日記』にはさむほど心を揺さぶられる体験であったのだが、それでもアンネを演じることはできなかった。「彼女の一生と死を自分の利益にする――出演料をもらい、おそらく映画でほめられるために利用する気にはなれなかった」
もっとも彼女の友人のドリス・ブリンナーはまた「実際的な問題」も指摘している。「彼女は十五歳の少女の役をやるのは無理なことを知っていた」。
『アンネの日記』が公開されたの一九五九年、オードリーはすでに三十歳に
右下  
オードリーヘップバーン ~* 大女優の名を冠した気品あるバラ
彼女を永遠の妖精と呼ぶ気にはなれない
彼女ほど苦しみ抜いて 最も人間らしく散った人はいないと思う
わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!
          (1944年4月5日)
日記の突然の切断 この様な悲劇を二度と繰り返してはいけないと思います
なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。
    (1944年8月1日 最後の日記)

子どもじゃないか!!

2021-04-23
Battle of the Bulge with english intro
帝国の存亡かけた最期の戦いに参じた兵は、子どものような兵士だった!
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