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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

2020-05-03
Facebook 矢ケ崎浩一さんの投稿より

1945年8月15日以降も、やんごとなき事情で戦闘を継続せざるを得なかった日本軍部隊は複数あり、以前投稿した占守島での第91師団及び第11戦車連隊の戦闘が有名ですが、大陸でも在留邦人の脱出時間を稼ぐため、実に10倍以上の兵力差の中奮戦し、4万名ともいわれる在留邦人の脱出を成し遂げた部隊がありました。

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

 1945年8月9日、突如日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍は、日本軍に対する攻勢を開始します。

 日本軍駐蒙軍が守る内蒙地区にも、、ソ連軍及び外蒙軍合わせて4~5万名規模の機械化及び騎兵部隊がなだれ込みました。

 ソ連参戦の情報を受けた現地特務機関は、奥地での治安が急激に悪化する中、一般邦人の撤収を決定、内蒙地区の自治区である張家口には、一般邦人4万人がひしめく状態となっていました。また、満州等ソ連軍占領地での一般市民に対する暴虐が報告されるに従い、張家口自治区の市民の間でも、不安が高まっていました。

 そして8月15日、終戦の詔勅が下り、支那派遣軍司令部は、管下の全部隊に対し「即時停戦・武装解除」を司令、張家口の防衛を担っていた丸一陣地の響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)はそれを受けて、ソ連軍へ軍使を派遣しましたが、ある時は銃撃を受け、また、市民の避難までの時間的猶予も許可されない、という状況下、内蒙軍根本司令は司令部に対し「市民の避難が終了するまで防衛戦闘の実施やむなし」と訴えるも、司令部から再度の「即時停戦・武装解除」の指示が下ります。そして根本司令は8月20日、「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」と司令部に返信、管下部隊に対しては「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う」と断言し、市民脱出のための防衛戦闘を決断します。

 張家口を防衛する響兵団は、丸一陣地に籠る2千5百名、ソ連側は優にその10倍を超える人数と、大量の装甲車などの重装備をもって猛攻を仕掛けますが、辻田参謀の指揮の元、90式75㎝砲等強力な火力を持ち、戦車第3師団の一部も合流していた響兵団の粘り強い防戦の前に、なかなかソ連軍は陣地を制圧できません。最後には数にものを言わせた白兵突撃まで敢行しますが、日本軍の白兵戦での強さはここでもいかんなく発揮され、大損害を受けたソ連軍は遠距離からの制圧射撃と武装解除の交渉(毎回決裂)を繰り返す形となり、響兵団はここで貴重な時間を稼ぐことに成功します。

 また、事務方の活躍もありました、内蒙軍司令部は、鉄道管理者へ指示を出し。終戦前後から、上海から張家口に来た貨物列車の車両を片っ端から張家口の駅構内にとどめ、何度中央からの返却命令を受けても無視する、という挙に出ました。結果的にこの行動により、大量の貨車を使った迅速な避難が可能になっています。

 激しい防衛戦闘と停戦交渉における巧妙かつギリギリの時間稼ぎにより、響兵団は当初市民の避難に必要とされていた2日間を耐えきり、実に4万人の市民の脱出に成功、自らも夜陰に乗じて張家口を脱出、蒋介石率いる国民党軍へ投降し、生き残った全員が無事帰国しています。

 この戦闘で戦死した響兵団の兵士は約80名、この尊い犠牲の元、4万人の一般邦人はほとんどが、上海経由で無事の帰国を果たしています。即時の武装解除・投降を実施した関東軍と満州居留民がたどった悲惨な運命を顧みる時、軍規に背きながらも戦った彼らの判断が正しかったと思わざるを得ません。

 余談ですが、この防戦を決断した根本司令は、戦後台湾に渡り、中国の台湾進攻に対し、金門島での防衛戦を指揮、人民解放軍の上陸部隊を撃退する、という殊勲も挙げています。

辻田参謀
響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)

帝国主義の時代から自由主義経済の時代へ

2020-04-25
米テキサスで大油田が発見され、ガルフ、テキサコといった国際石油メジャーを誕生させることになった。
ビクトリア女王
メジャーの台頭
大英帝国に63年にわたって君臨したビクトリア女王が死去し、7つの海を制した大英帝国繁栄の歴史に一区切りがついた。

【20世紀の記憶 1901(M34)年】(ref.20世紀の全記録)
  

 この年、大英帝国に63年にわたって君臨したビクトリア女王が死去し、7つの海を制した大英帝国繁栄の歴史に一区切りがついた。女王の治世末期には、さしもの大英帝国の国力にも陰りが見られ、ドイツ、アメリカ、日本などの後発が、その地位を揺るがすようになると、まもなく栄光の孤立を捨て日英同盟を結ぶなど、列強間の力のバランスを保つ努力にむかう。
  

 米では、第25代大統領ウィリアム・マッキンリーがアナーキストの男に暗殺された。彼の在任中には、米西戦争の勝利しフィリピン、キューバを支配下に置き、さらにはハワイを併合するなど、米国の帝国主義進出の端を開くことになった。暗殺後、あとを引き継いだセオドア・ルーズベルトも、同様の政策を推進してゆく。
  

 清朝中国では、李鴻章が宰相として「洋務運動(近代化運動)」を推進し、太平天国の乱、日清戦争、義和団事件なと、清朝末期の難問題を処理して来た。その李鴻章がこの年の末に死去し、清国は列強の浸食にさらされながら滅亡へと向かう。
  

 これらは、19世紀の帝国主義の成熟時代に、新たな変化をもたらす兆しでもあった。やがてヨーロッパ列強の関係は、複雑な同盟・対立関係で錯綜し、第一次大戦へと向かっていった。
  

 この年の初め、米テキサスで大油田が発見され、ガルフ、テキサコといった国際石油メジャーを誕生させることになった。日本でも官営の八幡製鉄所が誕生するなどしたが、金融王J.P.モルガンは、世界最大だったカーネギー製鋼を買収し、自己所有の鉄鋼9社と合わせて、全米鉄鋼の7割を占める超巨大な「USスチール」を誕生させた。また、大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河の独占建設権を、アメリカがフランスから獲得した。これらの産業や事業の巨大化は、巨大な資本を必要とし、モルガンやロックフェラーなどの大財閥が誕生した。
  

 「モルガン財閥」は、ジョン・ピアポント・モルガンが、父がロンドンで起こした会社を受けつぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。J.P.モルガンは他の有力銀行家らと組み、鉄道建設への投資に注力、1890年代までに多くの主要鉄道会社を支配するに至った。さらに鉄道関連産業として、エジソン電灯会社、ベル電話会社などと資本的関係を結び、後の巨大独占企業ゼネラル・エレクトリック(GE)、AT&Tへと育て上げた。
  

 1901年、カーネギー製鋼を買収統合しUSスチールを生み出すと、鉄鋼業を基幹として、死の商人デュポン、鉄道王バンダビルト、金鉱王ダッヂなどの巨頭と組んで、兵器産業、自動車産業(ゼネラルモータースGE)、さらには保険、放送、映画といったサービス産業も傘下に収めてゆき、端緒に就いたばかりの航空機産業や、やがては原爆製造のマンハッタン計画にまで参画することになる。
  

 一方の「ロックフェラー財閥」は、ジョン・ロックフェラーが精油業「スタンダード・オイル」を創業し、全米の石油の90%をコントロールしたとも言われる。弟のウィリアム・ロックフェラーは、ナショナル・シティー銀行ニューヨーク(現在のシティグループ)創業者の一人となり、ロックフェラー一族として、モルガン財閥、メロン財閥とならぶ財閥を形成した。
  

 金融業から産業支配を展開したモルガン財閥に対して、ロックフェラー財閥は石油業を支配した資金から展開した。弟ウィリアムがナショナル・シティー銀行を創業することで、金融業も手中に収めると、モルガンと同じく、石油業や金融業を拡大するとともに、鉄道業(ユニオン・パシフィック鉄道)、電機産業(ウェスチングハウス)、さらにUSスチールへの株式投資など、様々な企業を傘下に収める。またモルガンと組んで軍事産業にも参入、マンハッタン計画にもウェスチングハウスなどを通じて参加している。
  

 かくして「モルガン=ロックフェラー帝国」とも呼ばれる巨大財閥たちは、その政府への影響力も強大となり、彼らの最大のビジネスとも言える二つの世界大戦へなだれ込んで行く。
  

 一方で、シャーマン法に始まる独占禁止法も整備され、スタンダード石油の企業分割など、その勢力をそぐ財閥対策も順次実行された。今やかつてほどの支配力はなくなったとはいえ、法に触れない形での隠然たる支配体制は温存されていると言えよう。
 

石油が出ました。 Facebook 佐々木信雄より

2020-05-03
石油マネーの時代が始まりました。

【20世紀の記憶 1908(M41)年】-1
  

(中東で大油田)
*5.26/中東 ペルシア砂漠で「夢の大油田」発見! 英国の後押しで、銀行家ダーシーと技術師レイノルズの快挙。
  

 イラン南西部の砂漠地帯から、大油田が発見された。鉱掘家ウィリアム・ノックス・ダーシーは、英国の先兵として、イラン・カージャール朝から石油採掘権を取得し、苦難の末、中東でも最大級の油田の発掘に成功した。アングロ・ペルシア石油会社が設立されて,この事業を引継ぎ、後に中東石油を支配したセブンシスターズの一つ、ブリティッシュ・ペトロリアムの前身となった。
  

 この時期、中東に石油の莫大な埋蔵量があることが判明してきており、それまでただの砂漠の地であった中東が、列強の注目を浴びることになる。大英帝国海軍でも、全軍艦の燃料を石炭から石油に切換えを図っており、自動車も普及期に差し掛かるなど、石油が一躍、重要エネルギーとして脚光を浴びた。
  

 アメリカではゼネラル・モーターズ(GM)が設立され、一方フォード社では、本格的普及車として名声を馳せた「T型フォード」を発売するなど、本格的なモータリゼーションが始まった。ライト兄弟による有人飛行に成功したばかりの飛行機も、第一次、第二次世界大戦を経て、爆発的に進化してゆく。
  

 当時、中東一帯を支配下に置いていた老大国オスマン・トルコ帝国は、石油利権を目指す列強に浸食され続けていたが、第一次大戦に参戦して戦敗国となると、一気に分割が進むことになる。現在の中東の混乱は、石油の発見とともに始まったと言える。
  

〇この年の出来事
*6.12/日本 細菌学のコッホ来日。かつての弟子 北里柴三郎と再会。
*7.13/英国 第4回オリンピック・ロンドン大会開幕。水泳競技も初登場。
*11.15/中国 清の独裁者、女帝西太后が死去。3歳の溥儀を皇位に就かせたあと。
 

中東 ペルシア砂漠で「夢の大油田」発見! 英国の後押しで、銀行家ダーシーと技術師レイノルズの快挙。
イラン・カージャール朝から石油採掘権を取得
老大国オスマン・トルコ帝国は、石油利権を目指す列強に浸食され続けていた

20世紀は戦争の世紀

2020-04-27
非戦という主張

【20世紀の記憶 1903(M36)年】(ref.20世紀の全記録)
 

 1900年の義和団事件で、日本と並んで多くの出兵をしたロシアは、満州から撤兵せず、さらに朝鮮半島(大韓民国)にまで触手を伸ばしつつあった。三国干渉で返還させられた遼東半島も、ロシアが租借するなど、日露の利害衝突は一触即発状態になりつつあった。
 

 日英同盟でイギリスの後押しを受けることになった日本では、「ロシア討つべし」との国論が起こり「対露同志会」といった団体が結成された。一方で、反戦論、非戦論者たちも開戦反対の論陣を張った。主戦論に転じた『万朝報』を去った幸徳秋水・堺利彦らは、『平民新聞』を発行して、社会主義者の立場から非戦を訴えた。
 

 また内村鑑三は、キリスト者の立場から非戦・無抵抗という独自の非戦論を唱え、文学者として与謝野晶子や木下尚江らは、非戦をテーマの文学を展開した。日露戦争に際して「君死に給うことなかれ」とうたい上げた与謝野晶子だが、太平洋戦争時は、戦争賛美する歌を作るなど思想的な一貫性は無かった。
 

 主戦論を唱える桂太郎首相と小村寿太郎外相らと元老山縣有朋は、慎重派の元勲伊藤博文・井上馨などを説得し、世論の後押しもあり、翌年初めの日露開戦と流れ込んで行く。
 

 文化面では、この年3月にパリサロンで開催された「アンデパンダン展」で、マティス、ドラン、ブラマンクらの作品が衝撃をもたらし、その原色の洪水は「フォービズム(野獣主義)」という呼称の発祥となった。そのフォービズムなどに大きな影響を与えたポール・ゴーギャンが、5月に南太平洋で孤独な死をとげた。11月には、モネ、セザンヌらと「落選者展覧会」を開き、印象派をリードし続けたカミーユ・ピサロが73歳で没した。
 

 この時代の日本を物語る「モルガンお雪」の逸話は、9月に祇園の芸妓「お雪」が、若い米人富豪に見受けされたことに始まる。その見受け人は、モルガン財閥の創業者J.P.モルガンの甥、当時30歳ジョージ・デニソン・モルガン、ひと目ぼれしたジョージは、ふっ掛けられた落籍料の大金4万(換算不能だが、今なら1000万近い?)を、ポンと投げ出したとか。
 

 以後「モルガンお雪」は、日米欧に渡って数奇な運命をすごすことになる。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。
 

 「からゆきさん」は、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷/1974年』によって、戦前で途絶えていた、その呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170331

青春が戦争の消耗品でなんて、まっぴらだ!  大林宜彦『花筐/HANAGATAMI』より
日本勝った、ロシア負けた!
非戦!

それは、ここから始まった。

2020-04-21
公害の原点
Fb 佐々木 信雄さんの投稿

【19th Century Chronicle 1900年(M33)】-1
  

(足尾鉱毒問題/川俣事件)

*2.13/群馬 足尾銅山の鉱毒被害民が、政府に陳情のため上京の途中、川俣で警官と衝突し、負傷者および逮捕者が多数出る。「川俣事件」
*2.15/ 田中正造が国会で、足尾鉱毒被害民の請願運動弾圧に抗議の質問をし、足尾鉱毒被害者救済決議案を提出する。田中はこの日、憲政本党を脱党する。
  

 1900年(M33)2月13日、足尾銅山の鉱毒被害を訴える農民らが、政府に陳情のため上京の途中、群馬県の川俣で警官と衝突、流血の惨事となり農民多数が逮捕された。これが、当時は兇徒聚集事件と呼ばれた「川俣事件」である。事件では農民67名が逮捕されたが、1902年12月25日、起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形となった。
  

 「田中正造」はその日、国会で足尾鉱毒問題に関する質問を行っていたが、質問後に初めて事件を知ると、2日後に再度事件について質問を行った。被害陳情(押出し)の決行日は、田中の国会質問日があえて選ばれたものであった。この時の演説が、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説と言われる。2日後の演説の途中では、田中は当時所属していた憲政本党を離党した。
  

 足尾銅山は江戸時代から採掘されていたが、幕末にはほぼ廃山となっていた。しかし、明治維新後民間に払い下げられると、古河市兵衛の経営で採鉱事業の近代化を進め、足尾銅山は日本最大の鉱山となった。当時銅は日本の主要輸出品のひとつという重要金属だったが、精錬時の排煙、精製時の鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)は、栃木県・群馬県など北関東一帯の環境に多大な被害をもたらすこととなった。
  

 足尾鉱毒問題は、わが国最初の公害事件とされ、採掘精錬にともなう鉱毒ガスやそれによる酸性雨により、足尾町近辺の山は禿山となり、木を失い土壌を喪失した山は、次々と崩れていった。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積するため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、台風などによる洪水の原因となった。
  

 鉱毒による被害はまず、1878年からの渡良瀬川の鮎の大量死として表面化した。やがて、渡良瀬川から取水する田園や洪水で足尾から流れた土砂が堆積した田園などで、稲が立ち枯れるなど農業の被害が出るようになる。この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、下流の江戸川や利根川にまで及び、その被害範囲は確定しがたいほどである。
  

 明治初期から平成に至るまで一世紀もの長期におよぶ公害であり、河川の水や流された土壌により、関東一帯に及ぶ広範な地域に被害を及ぼした。さらにその原因が、排煙、鉱毒ガスの二酸化硫黄や、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)など多岐にわたる有害物質であり、農業被害・人的被害との因果関係が特定しがたい。のちの水俣病における有機水銀や、イタイイタイ病のカドミニウムのような因果関係が曖昧なため、死亡者や障害者の人数も推定値の域を出ない。
  

 渡良瀬川流域出身の国会議員田中正造は、たびたび国会で質問するも政府は取り合わず、積極的に鉱毒対策を行わず、むしろ鉱毒の記録集を発売禁止にするなど、言論封殺で対応した。田中は衆議院議員として、単独で何度も議会で取り上げ、政府を追及した。
  

 議員を辞職後も、鉱毒被害を訴える活動を続け、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行おうとした(天皇直訴事件)。途中で取り押さえられて直訴そのものは失敗したが、直訴状の内容は知れわたり、足尾鉱毒の問題は一般にも知られるようになった。政府は裁判で話題が大きくなるのを避け、拘束された田中は即日釈放されたという。
  

 1973年(S48)までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。その間、治水名目のダム建設など、国によって幾つかの対策がなされ、鉱山運営の古河鉱業側も、明確な責任を示さないまま、和解示談などで部分的に補償するなど、なし崩し的な対策しかなされないまま放置されたが、やっとのことで、1972年(S47)3月31日、被害者団体は、加害者を古河鉱業と断定、加害責任を認めさせる調停を成立させた。
  

〇この年の出来事
*1.25/東京 社会主義研究会が改組して「社会主義協会」となる。会長には安部磯雄、幹事には片山潜が就任。幸徳秋水らも参加する。
*3.10/ 集会及び政社法にかえて、「治安警察法」が公布される。
*4.14/パリ パリ万国博覧会が開幕する。
*4.-/ 与謝野鉄幹が詩歌雑誌「明星」を創刊し、浪漫主義をうたう。
*9.14/東京 津田梅子が麹町に女子英学塾を開く。
*9.15/東京 立憲政友会結成式が帝国ホテルで開かれる。総裁は伊藤博文、所属議員は152人。
*102.2/ 内務省が娼妓取締規則を公布し、娼妓の自由廃業を認める。
 

田中正造という生き方
足尾銅山
渡良瀬川流域
田中正造
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