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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

戦争の世紀の幕開け

2020-05-21
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(第一次世界大戦 勃発)
*7.28/墺 オーストリア、セルビアに対して宣戦布告、「第一次世界大戦」勃発!
 

 サラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、第一次世界大戦が開始された。当初は、関連諸国に世界戦に拡大するという認識は薄かった。しかしその背景には、一触即発で世界大に広がる複雑な構図があった。
 

 直接はオーストリアとセルビアであったが、オーストリアの後ろにはドイツ帝国があり、セルビアは汎スラブ主義を進めるロシア帝国があった。そしてさらに各国は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国)と、三国協商を形成していた英・仏・露を中心とする連合国(協商国)と、2つの陣営に分かれ対立した。
 

 さらに日本が日英同盟を理由に参戦し、イタリア、アメリカも連合国側として参戦する。そして、それら列強が世界中に植民地展開していたため、植民地間での戦闘も含めて、またたくまに世界を巻き込む戦争となった。一般では戦争が早期に終結するものと楽観されていた。
 

 しかし、進化した機関銃の組織的運用等により、防御側の優位の状況が生じ、「塹壕戦」による持久戦が主流となり、戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は、国民総動員体制をとり、国民経済のすべてを投入する「国家総力戦」を強いられ、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
 

 協商国側は海上封鎖で、同盟諸国の植民地との連絡を断つ戦略を展開し、経済を疲弊させた。1918年にはオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解、ドイツでも、キール軍港での水兵の反乱で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争では900万人以上の兵士が戦死し、その人的被害、経済的被害は、史上初の世界大戦として記録された。
 

 第一次大戦の結果、戦敗国であるドイツ、オーストリアは当然のこと、戦勝国側のイギリス、フランスも国力が疲弊し、やがてヨーロッパ諸国に代ってアメリカが世界の中心に登場する原因となった。またロシアでは、大戦末期にロシア革命が起り、内戦状態となり、終戦をまたず離脱することになった。
 

 第一次大戦を舞台にした映画は数多くある。激戦の戦場を描いたものは多いが、これも大戦を背景にしたものだと言うのを挙げてみると、『アラビアのロレンス』"Lawrence of Arabia”、これはイギリスの諜報将校として、アラビア人の世界に入りこみ、アラビアの独立に協力するロレンスを描く。
 

 また、スピルバーグ『戦火の馬』"War Horse" は、第一次大戦に投入された馬の、数奇な運命を描いた、異色の戦争映画。
 

(追補)
 イギリスの「三枚舌外交」は、以下の三つの協定に集約され、それぞれ、アラブ・フランス(+ロシア)・ユダヤの利害に配慮した。その相互矛盾がのちの中東問題の起点となった。

 1. 1915年サイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立)
 2. 1916年5月サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
 3. 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設)
 

 オスマントルコが束ねていた地域が、小トルコとそれ以外に分割され(!)、その残余部分が西欧列強によって勝手に分割され(2)、ユダヤ資金と引き換えに、後のイスラエル建設に暗黙の了解を与えた(3)。まさに現在の中東地図に描かれる状態を準備したことになる。
 

 ロレンスは1の実現をタテに工作を進めたが、2・3によって、まったく別の中東世界が形成されることになる。英の「一枚目の舌」に乗っかって暗躍した小物に過ぎなかった。
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

サラエボ事件、第一次大戦の火種

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(サラエボ事件)
*6.28/サラエボ オーストリア皇太子夫妻、暗殺される! 大戦の「引き金」をひいた銃声2発。(「サラエボ事件」)
 

 1914年6月28日、「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、「サラエボ」(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人青年によって暗殺された。
 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが、隣国の「セルビア」はかつての領土の回復を目指しており、これに呼応するように、ボスニア内のセルビア人住民にも、オーストリア支配への反発が高まっていた。そんな中、オーストリア皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪れることになり、セルビア系の民族主義的な青年グループが暗殺を企てたのだった。
 

 バルカン半島は、古くから諸民族、諸宗教が入り乱れてモザイク状になった複雑な地域で、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。古代以来のローマ・ラテン系、ギリシャ系に加えて、ゲルマン系、スラブ系が、それぞれさらに細かに分岐した民族に分れて定住し、さらに中世以来「オスマントルコ帝国」が支配し、トルコ人が流れ込んでいた。

 諸民族に重なるようにして、宗教もローマカトリック、ギリシャ正教、ロシア正教、そこへイスラム教が加わり、さらにそれが諸流派に分かれて浸透している。それらの複雑な地域を、オスマン大帝国が束ねる形で支配していたが、その勢力が衰えるに従い、地域内には民族主義が高まり、一部民族は独立を勝ち得ていった。
 

 抗争する諸民族の後には、オスマン帝国の再生を目指す汎トルコ主義のトルコ、汎スラブ主義で南下を目指すロシア、そして西方から拡張をはかるオーストリア=ハンガリー帝国など大国が控えており、それらの力が大きな緊張状態を引き起こしていた。そんな中で、「露土戦争」や三次にわたる「バルカン戦争」などの紛争が頻発し、各国の国境線は頻繁に書き換えられる。そのような一触即発の「火薬庫」でサラエボ事件が火を噴いた。
 

 オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦に発展することになる。当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあったため、サラエボ事件を契機に、各国の軍部は敵国の侵略に備え総動員を発令した。各国政府は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展した。
 

 サラエボは、東欧共産圏の崩壊と連動して、第二次大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦」が解体される過程でも、深刻な内戦に見舞われた。旧ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが、ユーゴの中心であったセルビア共和国から分離する独立戦争という形で内戦となった。
 

 中でもセルビア寄りに位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、最も大変な内戦を経ることになる。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言するが、時の住民約430万人のうち、44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と、異なる民族が混在していた。独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人に対して、1/3を占めるセルビア人は、セルビアに戻って合体することを主張し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」と呼ばれた内戦となる。
 

 「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた『サラエボの花(2006)』は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%8…
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

20世紀の光と影 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。

2020-05-06
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
偽の和睦提案に騙され、投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。

【20世紀の記憶 1909(M42)年】
 

(戦士ジェロニモ)
*2.17/米 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。
 

 白人に対するアメリカ・インディアンの、最後の組織的抵抗を指導したアパッチ族戦士ジェロニモが、オクラホマのシル砦で虜囚として79歳で死去した。
 

 ジェロニモは誤解されるような「酋長」ではなく、シャーマンであり勇猛な戦士の一人であった。彼は、家族を皆殺しにされると復讐に立ち上がり、アパッチ族の戦士たちは、彼個人を慕って尊敬し戦ったのであった。
 

 山岳ゲリラ戦にたけたジェロニモたちは、白人入植者やアメリカ軍を恐れさせたが、偽の和睦提案に騙され、1886年投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。
 

 子供の頃、インディアンといえばアパッチ族で、英雄ジェロニモという図式でインプットされた。当時の西部劇では、インディアンは悪者と決まってたが、ジェロニモだけは英雄として尊重された存在だった。TV映画ライフルマンでなじみのチャック・コナーズがジェロニモ演じている。「酋長」は邦題が勝手に付けたもので、このあたりからジェロニモ酋長という誤解が発生したのかも。
 

〇この年の出来事
*8.18/日米 2000本の桜、「親善大使」としてワシントンに贈られ、ポトマック河畔に移植される。
*11.11/米 アメリカ海軍、ハワイ真珠湾に世界最大の海軍基地を建設へ。
*12.31/米 ニューヨーク・マンハッタン島とブルックリンを結ぶ、マンハッタン橋開通する。たわみ理論による長大吊り橋の先駆となった。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170415

「坂の上の雲」

2020-07-20
https://www.youtube.com/watch?v=sqhCtr15FQE
原作:司馬遼太郎「坂の上の雲」
音楽:久石譲
朗読:渡辺謙
演奏:NHK交響楽団

東京招魂社を靖國神社と改称

2020-06-05
Facebook 英霊の本日の出来事
 
英霊の本日の出来事
 

明治12年6月4日の本日、東京招魂社を靖國神社と改称致しました。
別格官幣社に列す。

正字による表記は「靖國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「月」でなく「円」、「国」は舊字體)」。
神社名にある「靖國」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて國を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、明治12年に改称。
當初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社號としては妥當を失する」可能性があるために廃されたというが、名称變更後も「招魂祭」は続けられている。
因みに同年6月16日の「社號改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇國をば安國と知食(しろしめ)すが故に靖國神社と改称(あらためとなえ)」とある。
安来が根の国であるということを暗に示したという説もある。
英語圏では「Yasukuni shrine」と表記されるが、それと並んで「war shrine」(戰爭神社)と表記される場合がある。

「祠官・神職」
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。
例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官、尉官が奉仕した。
明治8年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は舊陸軍と海軍が隔番で務めた。
明治12年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。
同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、昭和13年からは権宮司も置かれることとなった。宮司以下神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・舊陸海軍の3者協議で行い、実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った 。
また、社司・社掌は陸軍省第1局の所属であったが、明治20年には閣令第4号により神官を廃して神職(職名)を置き、舊陸海軍が補任することとなった。
昭和21年の官國幣社制(近代社格制度)廃止以後は自主管理なった。

(ウィキペディア参照。)
画像は、東京招魂社。
現靖國神社。

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