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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

横田滋さんだけが気づいた娘からの「メッセージ」

2020-06-07

87歳で亡くなられた横田滋さんについて忘れられないことがある。中断していた日本と北朝鮮の政府間交渉が3カ月ぶりに再開された2004年11月のことだ。

このとき、日本からは外務省、警察庁など19名の訪朝団が組織され、交渉のテーブルについた。交渉の目的は、北朝鮮側の説明を矛盾点から突き崩すことにあった。その2年前、小泉純一郎首相が訪朝した日朝首脳会談により、拉致被害者の蓮池薫さん夫妻、地村保志さん夫妻、曽我ひとみさんの5人が25年ぶりに帰国している。

内閣府は帰国した被害者から聞き取りを行い、A4サイズの極秘ファイルを作成。中身がマスコミに漏れないように「拉致被害者・家族支援室」(当時)内部で厳重に管理していた。このファイルをもとに、横田めぐみさんなど他の被害者が「死亡」したという北朝鮮側の説明に誤りがあると、追及する予定でいたのだ。

しかし、この交渉で日本側が想定していなかったことが起きた。横田めぐみさんの元夫が姿を現したのである。

横田めぐみさんの元夫は、韓国人拉致被害者のキム・チョルジュンこと金英男氏である。10代の少年時代、友だちと海水浴をしているときに北朝鮮の工作船に連れ去られたとされている。金英男氏についてはのちにテレビカメラの前で記者会見を行うまで、当時の時点ではどういう人物か詳細は明らかになっていなかった。横田めぐみさんと結婚した後、蓮池薫さん夫婦や地村保志さん夫婦と同じ「太陽里」という集落で暮らす仲間だったという。

当時、私は金英男氏のことを日韓両国で調べた。蓮池さんと同じ翻訳所で働いた時期があり、勤務先で蓮池さんと共に徹夜作業をする同僚だったという。金氏はめぐみさんと離婚後、1997年に平壌市人民委員会副委員長の娘で、党幹部専用の専門学校生と再婚。この副委員長は金正日総書記と昵懇の仲である。つまり、めぐみさんの元夫は将軍様を囲むグループの一員になっていたのだ。

日朝政府間の交渉中に、めぐみさんと婚姻関係にあった人物が現れたのは、日本側にとって大きな驚きだった。そして、金英男氏は意外なものを日本側に手渡した。それがめぐみさんの「遺骨」である。

のちに日本政府の鑑定で別人のものとされて、世論が騒然となったことを覚えている人も多いだろう。結局、この交渉で進展はなく、その後、日本では「北朝鮮のニセ遺骨」報道が過熱していった。

例えば、めぐみさんが入院した病院は「平壌49号予防院」ではなく、(中国との国境沿いにある)「義州の病院」という点や、「1994年に死亡」という時期の説明に矛盾があることなどだ。

このとき、もう一つ大きなニュースとなったのが交渉の席で渡された3枚の写真だ。おとなになった横田めぐみさんの写真である。

それまで報道される横田めぐみさんの写真といえば、中学に入学するときの制服姿の写真がほとんどだった。新潟で行方不明になる前の近影である。1977年に誘拐事件として捜査に使用された写真だ。母親の早紀江さんによると、あの写真はめぐみさんの体調が悪いときに撮られたものであり、「表情が娘らしくない」ものだという。この写真が長い間、報道を通して国民の目に焼き付いていただけに、北朝鮮側が渡した写真は驚きをもってテレビで何度も報じられた。だが、いくつもの番組で、この写真の真偽を訝しがるコメントが噴出した。

「影の位置がおかしい」「背景が変だ」「偽造修正されているのではないか」というのだ。遺骨の件と同様に、3枚の写真についても、ああでもないこうでもないと議論が飛び交ったのである。しかし、そうした騒ぎをよそに報じられなかったのが、横田滋さんの言葉だ。

滋さんは日本政府側から写真を手渡されたとき、こう口走っている。

「あ、めぐみだ」

滋さんにしかわからないメッセージが写真にはあった。カメラが趣味だった滋さんは、めぐみさんが生まれたときから熱心に写真を撮り続けてきた。笑うとエクボができる娘をかわいがり、カメラを向けるとき、よくこう言ったという。

「右足を出して、少し斜めに肩を出すと、かっこよく写るよ」

父親が向けるカメラのファインダーに向かって、小さな娘が笑顔を見せて、父親から教わったポーズをとる。世界中のどこにでもある親と子のありふれた風景だ。

そして1977年に新潟市内から姿を消してから27年後。父親は、成人しためぐみさんの写真を突然渡された。写真のなかでめぐみさんは立ち姿だった。大人になった彼女は、右足を出し、少し斜めに肩を出していたのだ。幼い頃、父親がカメラのファインダーで覗いたときと同じポーズをとるめぐみさんがそこにいた。言葉はなくても、父と子にしかわからない合図であるかのように──。
 

2004年に北朝鮮側が渡してきた横田めぐみさんの写真

この話を私が書いたのはそれから2年後の2006年、前述の金英男氏が28年ぶりに韓国の母親と姉に再会したときだ。もう14年も前である。その後、横田滋さんとは酒席でご一緒するなど、何度かお目にかかる機会があった。しかし、言葉を交わした記憶はほとんどない。「あ、めぐみだ」という写真の出来事だけで十分な気がして、改めてお気持ちなどを質問するのが馬鹿げているように思えたからだ。

嘘、謀略、不信、断絶。そんな言葉ばかりが渦巻く日朝の間で私が目の当たりにしたもの。それは、父親にしかわからない本物の絆だった。だからこそ、長く北朝鮮報道に関わった端くれとして、何も手助けができない自分の無力さを痛感した。滋さんが亡くなった今、改めてそう思うのである。

デストロイヤー、自民党をぶっ潰す!!

2020-05-10
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【21th Century / 2005(h17)年】

◎郵政民営化問題

*2005.8.8/ 郵政民営化法案 参院本会議で否決 小泉首相が衆院解散

*2005.9.11/ 第44回衆院選 郵政解散 自民圧勝

*2005.10.14/ 郵政民営化関連法案が成立

 かつて、「三公社五現業」と呼ばれる公共企業体ないしは国営企業が存在した。これらは国の根幹ないしインフラを担う必須の事業であり、一方では、自由主義経済の生成期において、民間で担えないような資本・労働の集中投入が必要な産業部門であった。

 三公社とは、専売公社・電電公社・国鉄であり、五現業には、郵政事業・国有林野事業・国立印刷局・造幣事業・アルコール専売事業があげられる。しかしこれらは、高度成長期が終わる1970年代の終わりごろには、公営としての非効率性や、その独占的地位による民業圧迫など、弊害が目立つようになってきた。

 三公社は「土光臨調」などの奮闘により、80年代に順次民営化されたが、五現業では、アルコール専売事業が日本アルコール産業として民営化された以外は、国の直轄必然性が強い事業として、そのまま維持されてきた。

 国有林野事業・国立印刷局・造幣事業郵政事業は国固有の事業と言えるが、郵政は郵政三事業と呼ばれるように、「郵便事業」のほかに「郵便貯金」・「簡易保険」という事業を営んでおり、民間の銀行業や保険業と大きく事業が重なっており、その全国規模の展開から民業を脅かす存在となっていた。

 しかも「郵便貯金」や「簡易保険」という金融関連業務は、全国から膨大な資金が集まり、この資金は日本国政府に貸し出され、政府の一般財政とは別枠の「第二の予算」と呼ばれる「財政投融資」の原資とされた。これらは、旧日本道路公団や住宅金融公庫などの特殊法人へ貸し出されることになっている。

 しかしこれら特殊法人は、経営の不透明さや、官僚の天下り先となっている点が批判の対象となった。費用対効果を無視した「どんぶり勘定」の非効率な運営は、多額の赤字を計上し、それらは国の一般会計から補填されることになり、国民の税金の無駄使いとなる。

 かねてからの郵政民営化論者であった小泉純一郎は、内閣総理大臣に就任すると、小泉内閣は郵政民営化を重要施策の一つとして掲げ、小泉自身も「行政改革の本丸」であると主張した。

 一方で、郵政三事業の民営化は行政サービスの低下につながるとして激しい反対論が、野党はもとより与党である自民党内からも噴出し、衆議院で否決される事態となった。2005年7月衆議院本会議ではかろうじて可決されたものの、参議院本会議で否決されるなど、与党内からも多数の造反議員がでるなど、紛糾した郵政国会となった。

 この結果を受けて、小泉は郵政民営化の賛否を国民に問うとして、衆議院を解散(郵政解散)、郵政民営化に反対した国会議員と徹底対決する「郵政選挙」と銘打って展開し、「刺客」「小泉チルドレン」などの流行語が飛び交う「劇場型選挙」となった。

 そして9月11日に実施された第44回衆議院議員総選挙では、与党で2/3の議席を超える「圧勝」という結果になった。選挙後、自民党は郵政民営化に反対した国会議員に対して、除名や離党勧告などの重い処分を科し、後の特別国会で、10月14日に同内容の関連法案が可決・成立された。

 

(この年の出来事)

*2005.3.3/ コクド 堤義明元会長 逮捕

*2005.7.14/ 北海道「知床」世界自然遺産登録決定

*2005.10.1/ 道路公団が民営化

*2005.11.17/ 耐震強度偽装事件 発覚

*2005.11.22/ 広島 小1女児殺害事件

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/2020/04/27/183033

占領下の日本

2020-06-02
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
佐々木 信雄  昭和レトロ雑談

『Get Back! 50’s / 1950年(s25)』
 
○6.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、共産党中央委員24人の公職追放を指令する。26日、「アカハタ」の30日間発行停止、7月18日には無期限停止を指令する。
○7.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の増員を指令する。
○7.24 GHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告する。レッドパージが始まる。
○10.13 政府が戦犯覚書該当者を除く1万90人の公職追放を解除する。
 
 ポツダム宣言受諾による降伏とともに、日本国は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の「二・一ゼネスト」に対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、この対日占領政策は転換された。

 1948年、米の保守的圧力団体「アメリカ対日協議会」が結成されると、戦後日本における「日本の民主化・非軍事化」に逆行する「逆コース」の流れが顕著になった。この方向転換は、1949年の中華人民共和国の誕生、翌1950年の朝鮮戦争勃発によって決定的になる。GHQの施策も「民主化・非軍事化」から「非共産化・保守化」に移り、この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採るようになった。

 GHQは当初、労働運動の確立を必要と考え、労働組合結成を推奨し労組勢力の拡大を容認していた。激しい戦後インフレの下、総同盟・産別会議・全官公労などが結成され、賃上げや待遇改善を要求するデモを行い、全官公庁共闘は「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。この時期労働運動を主導していた日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけではだめでストライキによる内閣打倒を」と演説した。

 1947年年頭には吉田首相の「労働組合不逞の輩」発言などがあり、反発した全官公庁共闘により「二・一ゼネスト」が宣言された。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田内閣に収拾が取れなくなること必至となった。差し迫った実行前日午後4時、マッカーサーの中止指令が発せられた。

 1949年には、下山事件、三鷹事件、松川事件(国鉄三大ミステリー事件)が引き起こされ、事実不明のまま共産党や労働組合関係者の関与が喧伝されるなど、反共・反労働運動プロパガンダ進められ、さらに1950年の朝鮮戦争が勃発すると、GHQによる反共政策が露骨に指示されるようになった。

 そしてこの年には、共産党員を明示的に排除する「レッド・パージ」、公職追放の解除による保守派政財界人の復帰と人材確保、警察予備隊の創設と海上保安庁の増強という後の自衛隊の創設準備、など矢継ぎ早な指示がなされ独立復活後の日本の基本路線を確定した。
 
*ブログで読む>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20160529
 
*この年
特需景気起こる。/2眼レフカメラ流行/小原豊風・勅使河原蒼風などによる前衛いけばな盛ん/女性の平均寿命が60歳を超える。
【事物】パトロールカー/千円札
【流行語】とんでもハップン/オオ・ミステイク
【歌】水色のワルツ(二葉あき子)/東京キッド(美空ひばり)
【映画】羅生門(黒沢明)/きけわだつみの声(関川秀雄)/自転車泥棒(伊)/白雪姫(米、初のディズニー長編漫画映画)
【本】岩波少年文庫刊行開始/獅子文六「自由学校」(朝日新聞)/大岡昇平「武蔵野夫人」/カミュ「ペスト」

 
 
ゼネストは中止させられました。
レッドパージ
自衛隊の産声

占領ということ

2020-07-11
【きょうの出来事・7月4日】
▼アメリカ独立記念日(1947年)
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi…
 
7月4日、アメリカ独立記念日、東京宮城前広場では、マッカーサー元帥、アイケルバーガー中将臨席のもとに閲兵式が行われました。今から171年前、アメリカは当時のイギリスの植民政策に対抗して独立戦争を起こし、1776年7月4日、歴史的な独立宣言を公表。自由なアメリカ民主主義の基礎を築き、ワシントンが初代大統領に選ばれました。この日、閲兵式のあとアメリカ軍は東京の市内行進を行いました。

チェ・ゲバラという生き方

2020-05-16
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【チェ 28歳の革命】
"Che;The Argentine" (2008/米仏西)
 

 マルクス主義者で兵士にして医者、という説明があったが、さらに喘息持ちの革命家でもあるという、チョイかっこよすぎのチェをベニチオ・デル・トロが演じてる。例のトロ様。二部作の前編であり、後編は『チェ 39歳 別れの手紙』"Guerrila"

https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%81%E3%82%A7_(%E6%98%A0%E7…
 

 映画とは関係ないがちょいといい話。さすがCheも、経済だけは音痴だった。革命を達成した直後に、重要ポストを決める会議でカストロが、誰か「エコノミスタ(経済通)」は居るか?とたずねたところ、チェが名乗りを上げて「経済担当相」になった。銃を抱えて居眠っていたCheは、「コムニスタ(共産主義者)」と聞き間違えて手を挙げたらしい。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/112825

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