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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

漸くリンゴを黙らせたぞ!

2021-06-25
『讀賣新聞』2021年6月25日 朝刊
『小熊秀雄詩集』より

三島事件

2021-06-20

コロナ感染予防対策の只中で、今年も、6月23日が巡ってきました。

2020-07-23
和解の島 2020-07-05投稿

「和解の島〜ハンセン病 対話の先に〜」

沖縄本島北部の島で始まったハンセン病の元患者と島民たちの対話。初めて明かす偏見や差別の実態。見えてきた相互不信や怒り。“負の歴史”に向き合おうとする人々の物語。 物語の舞台は、かつてのハンセン病隔離施設がある沖縄・屋我地島。今、ここでハンセン病の元患者と島民たちの異例の対話が始まっている。きっかけは、施設の開園80周年の記念誌に住民側から見た差別の実態を記録に残し、和解の道を探ろうとしたことだ。島民たちが初めて明かす偏見や差別の数々。島民たちもまた島を一歩出れば他の地域住民から差別を受けていたという告白。不信を乗り越え“負の歴史”に向き合う人々を見つめる。

半島とお付き合いがしていた頃

2020-07-14
Fb佐々木信雄さんの投稿より

【19th Century Chronicle 1811-1815年】

 

◎最後の朝鮮通信使

*1811.5.22/対馬 朝鮮通信使、最後の来日。朝鮮使節を対馬で応対する。(最後の使節)

 

 朝鮮通信使の歴史は、室町幕府の将軍足利義満からの使者に対しての高麗王朝の返礼に始まる。高麗王朝にとって代った李氏朝鮮は、1392年から5世紀以上にわたって朝鮮半島を支配しており、ほぼその間、断続しながら朝鮮使節の派遣は続いた。「朝鮮通信使」となったのは、江戸幕府になって再開された時からであった。

 

 江戸期の朝鮮通信使は12回に及び、日朝の交流には、対馬藩の宗氏が重要な仲介の役割を果した。朝鮮との交易が主要な収入を占めた対馬宗氏は、日朝双方の国書を改竄するまでして交流を繋いだ。通信使は釜山から海路で、対馬を経て馬関(下関)から瀬戸内海に入り、大坂からは淀川を遡航し、陸路で京都を経て江戸に向かうルートを取った。

 

 通信使は江戸時代に入って様式化され、正使に伴う一行が500人あまり、これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わったという。朝鮮通信使は朝貢を意味したわけではないが、江戸の将軍に謁見するという一行は、江戸幕府の権威付けのために大仰な行列で行われた。しかし末期になると、朝鮮や江戸幕府双方の経済的負担が大きく、最後の使節団は対馬差し止めという形となった。

 

 鎖国中の江戸幕府にとって、朝鮮通信使は東アジア地域の動向を知る重要な情報源でもあった。しかし幕末が近づくと、西欧外国船が出没するようになり、東アジアの情勢が不安定となるとともに、使節団がもたらす情報も貴重なものでなくなってきた。それとともに、李氏朝鮮も内乱などで国力が消耗していったので、この年をもって通信使は途絶することになった。

 

(この時期の出来事)

*1811.5.-/ 天文方に蛮書和解御用係を設け、外国語翻訳の専門機関とする。

*1811.***/江戸 無敵の大力士雷電為右衛門が引退する。驚異の勝率9割6分2厘。

*1813.3.28/江戸 幕府が、菱垣廻船積問屋仲間に株札を交付、以後の新規加入を禁止。(十組仲間に株仲間として独占権を与える)

*1913.4.-/江戸 幕府が、三橋会所頭取杉本茂十郎に米会所の設立を許可。

*1913.9.18/江戸 米価下落のため、幕府は町人にも御用金を命じる。

*1814.5.24/越後 越後の幕府領で、農民が大挙して富豪や庄屋などを襲撃して打ち毀す。(北越騒動)

*1815.6.28/尾張美濃 尾張および美濃一帯で大洪水が発生する。

 

*ブログで読む>http://ehimosesu2nd.blogspot.com/…/19th-century-chronicle-1…

「もう一度めぐみを…」 講演1400回、署名1300万超…声を力に訴え続け 横田滋さん死去

2020-06-06

 「もう一度めぐみを抱きしめたい」。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父滋さんが5日、死去した。半生をかけ娘の救出を訴え続けた父の願いはついに届かなかった。

 1977年秋、中学1年生だっためぐみさんの13歳の誕生日会。カメラが趣味の滋さんは、親友に囲まれためぐみさんをうれしそうに写真に収めた。それから約1カ月後の11月15日、めぐみさんはバドミントン部の練習を終え帰宅する途中に、突然姿を消した。滋さんはあの日のことを「家族写真を撮って当たり前に過ぎていった毎日が幸せだった。あの日、すべてが変わりました」と語っていた。

 めぐみさんの失踪後、自宅の電話には誘拐を疑った警察の逆探知用装置が取り付けられ、捜査員が出入りするようになった。就寝時は電話をそばに置き、出勤前は手がかりになるものが漂着しているかもしれないと自宅近くの海岸を歩いた。いつ戻ってもいいように玄関には明かりをともし、テレビの「尋ね人」のコーナーで情報提供を呼びかけた。だが、めぐみさんにつながる情報は何も得られなかった。



滋さんの訃報を受け、兵庫県神戸市出身の拉致被害者有本恵子さんの父・明弘さんは「拉致被害者家族会の会長が横田さんでよかった。会長をほかにできる人なんていない。拉致問題の解決が早かったら良かったのに」と話しました。 明弘さんの妻・嘉代子さんも2020年2月に亡くなり、拉致被害者の親で健在なのは明弘さんと、滋さんの妻・早紀江さんの2人だけになりました。

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