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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

インド太平洋に安倍晋三が残した「遺産」

2022-01-07
ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)
安倍が提唱した枠組みが情勢改善のカギに KENT NISHIMURA/GETTY IMAGES

<辞任から1年余り。結局、安倍は中国に関しては究極の現実論者だった。バイデンもCPTPPがあることを感謝するだろう>

在職日数が歴代最長を記録した安倍晋三首相が持病を理由に辞任して1年余り。後任の菅義偉も既に退任した。

しかし、安倍が旗振り役を務めた新体制──包括的かつ先進的TPP協定(CPTPP)と日米豪印戦略対話(クアッド)──は今後長期にわたりアジアの地政学的状況を左右しそうだ。

皆さま、あけましておめでとうございます!

2022-01-05
Facebook 在日米軍司令部さん曰く
2022年が、皆さまにとって幸多い一年となりますように。 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

山本五十六の言葉

2022-01-05
Facebook 中野 博美さん曰く
時々思い出している菊池晴彦先生に
教えてもらった山本五十六の言葉。
苦しいこともあるであろう
言いたいこともあるであろう
不満なこともあるであろう
腹の立つこともあるであろう
泣きたいこともあるであろう
これらをぐっとこらえてゆくのが
男の修行である

「西太后」

2022-01-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
「西太后」は、自分の息子及び甥の同治・光緒両帝を、次々と幼帝として即位させ、自身が宮廷内政治の実権を握り続けた。しかし、李鴻章らを重用して進めた「洋務運動」は、日清戦争の敗北で頓挫し、西太后自身の威信も失墜した。
 そんな中で、成人して親政を始めた「光緒帝」は、「康有為」らに主導させて「戊戌の変法」を遂行するが、急激な上からの改革は民衆の支持も得られず、西太后派による宮中クーデターが遂行されると、西太后は光緒帝を幽閉し、政権を再度奪取することに成功した(戊戌の政変)。
 西太后のめざすところは、旧来の清王朝の威信を回復することだけにあった。政権を取り戻した後、西欧の政体をも取り入れようとした光緒帝を廃立しようと企んだが、諸外国の反対などにより実現せず、西太后の意のままにならない列強国の圧力には、憤懣を蓄積させていた。

1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。

2021-12-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
「わたしの文章作法」の原点にあたる話題が含まれるので、再掲します。
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○1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。戦後の生活綴方の復興に影響を与える。
 山形県山元村の若き中学校教師 無着成恭は、「生活綴り方運動」に取り組み、教え子である生徒たちの学級文集『きかんしゃ』などに掲載された生活記録作文をまとめて、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行した。戦後のアメリカ風理想主義的な教育方針と、貧困な東北山村の現実との矛盾に苦慮した無着成恭は、生活綴方と地域調査の手法によって身近な生活を見つめることから、自治と共同の精神を育成することを目指した。
 「綴り方(作文)」の指導を通じた無着の実践記録は、その生き生きとした生徒たちの生活記録から、新制中学校発足期の地域の生活に根ざした民主教育の方向を示すものとして一躍注目され、ジャーナリズムでとりあげられ、映画化・劇化されるなど広く社会的関心をよんだ。
 「生活綴り方教育」は、大正自由教育運動の中から生まれた。それは、それまでの画一的な教育から解放し、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育を目指すものであった。しかし戦前戦中の軍国体制下で、忠孝の道徳的なものに抑圧されていった。戦後の占領下では、GHQから、綴り方教育はむしろ軍国主義教育を体現したものとして排斥された。
 戦後に推奨されたアメリカ風経験主義に基づく教育は、自身で観察し自分で考えるという自由教育であったが、その手法の確立しないまま教育思想だけが持ち込まれたため、教師たちは困惑していた。そこへ無着成恭が持ち込んだ「山びこ学校」は、かつてからのなじみのある「生活綴り方運動」であり、しかも生活に根ざした戦後日本の民主教育の方向を示すものでもあった。
 教師たちは、これなら自分たちにもできると飛びついた。しかし「山びこ学校」の成功は、無著の個人的な感性と思考に負うところも大であったと思われる。子供たちに、自身で観察し自分で考えさせるのは、そのように抽象的な「指令」をするだけでは可能になるはずもない。
 私自身、昭和三十年代前半を小学生として過ごした。「山びこ学校」の余波からか、授業にはけっこう作文の時間があったし、やたら作文の宿題も課せられた。低学年の時は作文が大の苦手、「今日は良い天気です、明日も良い天気でしょう。おわり」といつも三行で終わってしまう。先生に相談すると「思ったことを素直に書きなさい」という。それならスタンダールの墓碑銘みたいに「起きた、食った、寝た」だけになってしまう。
(注)スタンダールの墓碑銘「VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、恋した)」、さすがに凡人とは違う(笑)
 作文の時間がいやで仕方なかったが、あるときふと、自宅で飼っている猫のことを書き始めた。すると次々と書くことが浮かんできていくらでも書き続けることができる。これに味をしめて、次回の作文も「猫の続き」とかで難なくスルー、そのうち猫の作文が地区の文集掲載作にまで選ばれてしまった。
 毎日、暇をもてあまして猫と遊んでる小学生。猫と戯れながら、いやでも猫のやることを観察している。だからいくらでも生き生きとした猫の様子が書ける。「観察し発見し書く」とはそういうことで、教師の仕事はそれに気付くような適切なアドバイスを送ることだろう。
 もう一つの例。文豪フローベールに、若きモーパッサンは師事していた。フローベールのアトリエに、モーパッサンは毎日同じ石畳の道を歩いて通ってくる。特別な文学の話をするわけでもなく、茶飲み話をして帰るだけの毎日。フローベールがモーパッサンに出した指示はたった一つ「毎日通ってくる石畳の道のことを書け」。かくして、来る日も来る日もモーパッサンは同じ石畳の道のことを書き続けた。その気で観察すると、同じ石畳にも微妙な光線の具合などで、毎回新しい発見がある。ものを書くということを、フローベールは端的にモーパッサンに教えたというわけである。
<追補>
 その後無着成恭は、明星学園の教員から教頭となるとともに、民間の「教育科学研究会・国語部会」のメンバーとして、国語教育の科学的・体系的な日本語指導(言語教育)の確立を進めた。それまでとは異なる、斬新な国語教育法ではあった。というか、それまでまともな国語教育法なんてものは、皆無だったわけだ(笑)
 息子の小学校の担任が、教科研の手法に心酔していたようで、やたらその手法に基づいた課題などを出してくるので、初めて知って少し調べてみた。
 例えば「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡っていった」という安西冬衛の詩を提示して、「この作者の目の位置はどこにあって、どんな蝶々を眺めているのでしょうか、そのようすを絵に描きなさい」などと設問する。さらに「その絵から、そのとき作者はどのような気持ちでいたのか、想像しなさい」という風に進めると、小学校低学年の生徒たちが、大人も顔負けの詩の解析をして見せたりする。
 一種の手品の種明かしみたいだが、この児童たちの解析は、すでに問いかけの構造の中に組み込まれているのだ。だから、生徒たちに特別な読解能力がついたわけではなく、特定の視点を与えずに「この詩について、自由に感想を書きなさい」などと課題を与えると、幼稚な感想でさえ書けないことになる。
 いずれにせよ、国語の教育法とかには、一見もっともらしく見えるが、けっこう胡散くさいものが多い。もとより、読解力をつけるにはやみくもに本を読めばよいし、その必要のない人は読まなければよいと思ってる。
 私が出くわしたした唯一の作文指導法は、「せんせいあのね、」という言葉を頭につけて始めなさい、というだけのものだった。先生に話しかける言葉の延長上で自然に書けるので、きわめて有効なのである。とはいえ、そのまま成長して会社員になってからも「社長あのね、」と報告書出すわけには行かないのである(笑)

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