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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

両陛下、記念式典に出席 フルブライト交流70周年

2022-07-02
© KYODONEWS 「日米フルブライト交流計画」70周年記念式典に出席された天皇、皇后両陛下=1日午後、東京都千代田区の帝国ホテル(代表撮影)
共同通信社 - 昨日 19:35
 天皇、皇后両陛下は1日、東京都千代田区の帝国ホテルを訪れ、交換留学制度の「日米フルブライト交流計画」70周年記念式典に出席された。天皇陛下はあいさつで「今後とも、交流計画を通じて、日米の人々の相互理解が一層深まるとともに、世界の平和と発展に寄与していくことを希望する」と述べた。

 両陛下はいずれも留学経験があり「若い時の海外への留学は、とても貴重な経験となる。留学先の国の社会や文化などについてじかに知る経験ができたのみならず、自分の国を見つめ直す良い機会になった」と振り返った。

 交流計画はフルブライト元米上院議員の提唱で、1946年に発足した。

◎クアラルンプール事件で過激派5人を釈放

2022-06-26

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1975(s50)年】-4
◎クアラルンプール事件で過激派5人を釈放
*1975.8.4/ 日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールにある米・スウェーデン両大使館を占拠、赤軍派など7人の釈放を日本大使館に要求する。5日、政府は超法規的措置として出獄を承知した5人を釈放する。
 1975(s50)年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら52人を人質に取った。犯行に及んだ武装赤軍派は、人質と交換で、拘束されている赤軍派メンバー等の釈放を要求した。当時の三木内閣は「超法規的措置」として、参加意思がある5名を釈放した。
 釈放要求は7人だったが、坂口弘と松浦順一は拒否したため、坂東国男、佐々木規夫ら5人が釈放され海外に逃亡した。この事件で仲間の奪回に成功した赤軍派は、さらに1977年のダッカ日航機ハイジャック事件などをひき起こす。クアラルンプール事件犯行グループの一員だった奥平純三は、後に逮捕されるも、'77年のダッカ事件での人質との交換で釈放され、釈放後さらに海外で何度もテロ事件をひき起こし、現在も国際手配中となっている。
 このような日本政府の弱腰は、かえってテロリストのターゲットにされ易く、批判の対象ともなった。釈放された5人のうち2人は後に逮捕されたが、坂東国男・佐々木規夫・松田久は、実行犯の奥平純三とともに国際手配されている。
(この年の出来事)
*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。
*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。
*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。
*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。

SP

2022-06-26
Facebook Isao Sotoyama  さん曰く

参議院選挙のある候補者街頭演説で
国務大臣が応援演説にて
この小柄なスーツ姿の女性
大きなカバンを携えて 襟のバッヂ
初めて見ました!
警護のプロ

サイゴン陥落

2022-06-25

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1975(s50)年】-2
◎サイゴン陥落
*1975.4.30/ 解放勢力軍がサイゴンに無血入城する。(ベトナム戦争終結)
 1973年1月に「パリ和平協定」が結ばれたが、これはアメリカ軍の「名誉ある撤退」のための一時停戦に過ぎず、ニクソンの後をついだフォード政権は南ベトナムを防御する何の方策ももち得なかった。南ベトナムは、いわば関ヶ原の合戦後の大阪城のようなもので、最終決着のタイミングを待つばかりであった。
 北ベトナム軍および南ベトナム解放勢力は、一気に南の首都サイゴン(現ホーチミン市)に迫り、ほとんど抵抗もなくサイゴンは陥落した。ここにおいてベトナム戦争は、北ベトナムの南解放という形で統一され、完全終結した。
 写真は、解放勢力のサイゴン入城を歓迎するサイゴン市民の様子と、一方、最後の米軍の救出ヘリコプターにわれ先と乗り込もうとする人々。歓迎する人々の心中も様々であろうし、逃げようとする市民たちは、米軍・南ベトナム関係の仕事をしてたり、南政府支持をするなど、残れば殺されるような人とその家族たちであったと思われる。この二枚の写真の中にも、当時の南ベトナム住人たちの複雑な状況がうかがえる。
 このジョン・レノンの手になる曲は、ジョンとヨーコそれぞれの子供たちのためのクリスマスを祝うために作られた。"War Is Over" と歌われているが、実際にはベトナム戦争の泥沼化の最中の1971年に発表されている。ベトナム戦争が念頭にあるのは間違いないが、ジョンやヨーコが、世界中の娘・息子たちの世代が戦争のない平和な社会を生きられるようにと願ったもので、普遍的な平和ソングとして残るものであろう。
”John Lennon - Happy Xmas (War Is Over)” https://www.youtube.com/watch?v=flA5ndOyZbI
(この年の出来事)
*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。
*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。
*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。
*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。

大統領が辞めさせられました。

2022-06-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く



【20th Century Chronicle 1974(s49)年】-3
◎ウォーターゲート事件 ニクソン米大統領辞任
*1974.8.8/ ウォーターゲート事件で、ニクソン米大統領が辞任を発表。9日、フォード副大統領が第38代大統領に就任する。
 1972年に発覚した「ウォーターゲート事件」は、その後驚くべき展開をみせる。セックス・スキャンダルなどものともしないアメリカ政界も、盗聴・侵入・もみ消し・司法妨害・証拠隠滅など、ありとあらゆる権力側の裏工作が露顕し、最高権力者 ニクソン大統領までもが深く関わっている事実と証拠が表面化した。
 具体的には、ワシントンのウォーターゲートビルの民主党本部への侵入事件が発端だが、ニクソン大統領が薄汚い言葉で、もみ消し工作などを直接指示するテープが提出されると、大統領への信頼は地に落ちて辞任するしかなくなった。
 そもそもこの時のニクソンは、ベトナム戦争の収拾、ドル防衛策の発表、中国との電撃的国交締結など、迅速な行動で圧倒的な人気を誇っており、選挙戦でも民主党などものともしない状況だった。たいした情報もない民主党本部に、えざわざ工作員を侵入させる必要などまったく無かったわけである。
 そこにはCIAとFBIの主導権争いなど、さまざまな流れがあり、本来の目的もまったく別のところにあったとの情報もある。ニクソン辞任の後、副大統領のフォードが就任したが、もはや政権運営できる背景は無くなってしまった。いわゆる「強いアメリカ」の復活は、ロナルド・レーガンの登場を待つしかなかった。
(この年の出来事)
*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。
*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。
*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。
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