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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

百済vs新羅、歴史は繰り返す・・・。

2022-07-07

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1980(s55)年】-2
◎韓国 光州事件
*1980.5.21/ 戒厳令下の韓国光州市で、武装した学生・市民が全市を制圧する。27日、軍が市内に突入して鎮圧、多数の死者を出す。(光州事件)
 朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが一時的におとずれたが、間もなく「粛軍クーデター(12・12軍事クーデター)」と呼ばれる軍部内の主導権争いで、全斗煥(チョン・ドゥファン)陸軍少将が実権を掌握する。軍事政権の復活を懸念して全国で民主化要求のデモが頻発するなか、全斗煥は戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三・金大中(両者とものち大統領)らを逮捕、騒動は全羅南道光州市(現 光州直轄市)に飛び火した。
 学生や市民たちは鎮圧に派遣された戒厳軍と戦い、やがて全羅南道道庁を占領をするに至り、もはや内乱の様相を呈した。光州鎮圧に投入された総兵力数は2万5千人にも上り、市街戦の末、市民軍は徹底的に鎮圧された。光州事件の模様は徹底的に報道管制され、その実態はなかなか明らかにならなかったが、のちに設立された「5.18記念財団」によると、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上るという。
 金大中は、光州市を含む全羅南道の出身で、当地域に地盤をもつ野党のリーダーであった。全羅道は、古代三国時代の百済、後三国時代の後百済が位置した地域で、それぞれ新羅、高麗の統一によって滅ぼされた歴史をもつ。一方、軍事政権を展開した朴正煕・全斗煥・盧泰愚らは、新羅・高麗が歴代支配した慶尚道の出身で、そちらに地盤を置いていた。
 朴政権以来、慶尚道地域がインフラ整備・経済開発・官公庁人事などで優遇され、全羅道地域が冷遇され、経済的にも後発地域となった。つまり勝ち組に不満をつのらせた負け組の鬱憤の高まりが、その心理的な背景にあったと言える。その我らが地域のエース金大中が、逮捕され死刑に処せられかけていたのである。
(この年の出来事)
*1980.7.19/ 第22回オリンピック・モスクワ大会が開催されるが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本を含む西側諸国の多くがボイコット。
*1980.3.6/ ロッキード事件の公判に関連して、自民党浜口幸一衆議院議員のラスベガス賭博で負った借金が、小佐野賢治を通じた金で返済されていたことが判明、浜田は議員を辞職する。
*1980.5.23/ 黒沢明監督の「影武者」が、フランスのカンヌ映画祭でグランプリを受賞する。

六代目山口組・司忍組長が若頭らを引き連れて新横浜駅に現れた理由

2022-07-06
お見舞いでした。
© FRIDAYデジタル 新横浜駅を歩く司組長(中央)と高山若頭(右から3人目)、竹内若頭補佐(同4人目)。通行人も足を止めていた
「報道陣が来ているなか、司忍組長が清田次郎総裁と握手をしたり、談笑もしていた。当代の司組長が若頭、さらに若頭補佐まで従えてお見舞いに来たのです。それだけ、稲川会と友好関係にあることをアピールしたいという狙いがあるのでしょう」(暴力団事情に詳しい、ノンフィクションライターの鈴木智彦氏)
FRIDAYデジタル - 8 時間前

6月17日朝10時頃、JR新横浜駅の周辺は異様な厳戒態勢だった。上空には神奈川県警のヘリが飛び、十数名の私服警官が周囲を警戒していた。そんななか新幹線の改札口から出てきたのは、六代目山口組の司忍組長。竹内照明若頭補佐が先導し、迎えの車の前には高山清司若頭の姿まである。

「この日、一行は稲川会の中核組織である山川一家の本部に向かいました。この少し前から稲川会の総裁・清田次郎氏が体調不良で静養していた。その『お見舞い』にやってきたのです」(全国紙記者)

司組長は1時間ほど本部に滞在し、昼食をともにしたという。出て来る際、司組長と清田氏はガッチリ握手を交わした。

大統領射殺!!

2022-07-05
*1979.10.26/ 朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、KCIA部長 金載圭(キム・ジェキュ)に射殺される。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1979(s54)年】-4
◎朴正煕大統領暗殺
*1979.10.26/ 朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、KCIA部長 金載圭(キム・ジェキュ)に射殺される。
 ソウル市内にある中央情報部(KCIA)の施設内で、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を接待する晩餐会中、金載圭(キム・ジェギュ)KCIA部長によって、朴大統領及び車智茢(チャ・ジチョル)警護室長らが射殺さる事件が起きた。この事件は、韓国では「10・26事件」と呼ばれる。
 この事件は大統領の最側近であったKCIA部長による犯行で、何人もの同席者の面前で実行され、金載圭自身逮捕され尋問を受けたにも関わらず、その動機が明瞭でないことなど謎が残る。大統領による処遇に不満を持ったからという説が有力だが、自らの地位が失われるほどの窮地にあったわけではない。
 朴独裁体制を倒して民主化するためのクーデターという本人の主張も、その行きあたりばったりの犯行では説得力に欠ける。米のCIAによるお膳立て説も、その後継の準備もなく、強力な反共親米政策を進めてきた朴政権を倒す根拠には乏しい。そして、金載圭の精神的情緒不安定による偶発的な凶行説まである。
 さらに分りにくいのは、韓国での朴正煕大統領および朴政権への評価が両極端に大きくぶれることである。戦後の大韓民国を、米軍の背景のもと独裁的に支配してきた李承晩(イ・スンマン)大統領が「四月革命」によって追放されたあと、混乱した政情下で軍事クーデターを起した「朴正煕少将」が実権を握った。
 朴正煕は「国家再建最高会議」という一元化された独裁機関を通じ、治安維持と経済改革を徹底して追及した。軍事政権としての力を背景に、李承晩長期政権下で腐敗しきった政治・経済界の浄化を押しすすめる。一方でKCIAを創設し、野党勢力・政敵・報道陣・抗議デモなどを徹底的に弾圧した。この独裁政治は、朴政権の負の側面を形成し、当時弾圧を受けた報道関係者が韓国マスコミの中枢をしめる現在では、根強い朴正煕批判勢力を維持している。
 一方で朴正煕は、「漢江の奇跡」と呼ばれる驚異的な経済発展を為し遂げた立役者とも評価される。政権奪取時、北朝鮮より低い最貧国とされた韓国経済を、一躍先進国の一員にまで押し上げたヒーローである。朴大統領の政治・経済政策は「開発独裁」とも呼ばれる。強力な一元的権力の下、経済資源を集中的に投下して産業立国を進める。そしてその経済的利益を民間に分配還元する事によって支持を集め、さらに権力集中を進めるという手法である。
 多くの新興国では、開発独裁を進める権力者が登場する。しかしその多くが、政権者自身や取巻き・近親者などが、蜜に群がる虫のごとく国の資源を食いつぶすことで、ことごとく失敗に終る。朴正煕個人としては比較的清廉であったとされ、政権関係者にも綱紀引締めを徹底したとされる。これが周辺事情の幸運とともに、漢江の奇跡の一因となったとも考えられる。
 朴正煕という人物は、明治維新の元勲 大久保利通と重なるところがある。朴は「漢江の奇跡」を為し遂げ、大久保は明治維新の大改革を中心となって仕切った。にもかかわらず両者共に、国民的な人気がない。目的達成のためには、冷酷に政敵や反対者を消してゆく、一種のテクノクラート的冷徹さが不人気の理由だろう。そして二人とも、私腹を肥さない清廉さが仇となり、世の中が見えない暗愚な小物に暗殺される原因になった。
(この年の出来事)
*1979.1.8/ 米グラマン社前副社長が、早期警戒機E2の対日売り込みに介在した政府高官は、岸信介・福田赳夫・松野頼三・中曽根康弘と証言する。(ダグラス・グラマン事件)
*1979.2.11/ ホメイニの指導のもとに、イラン革命が成立する。
*1979.3.28/ アメリカのペンシルベニア州スリーマイル島原子力発電所で、大量の放射能漏れ事故が発生する。
*1979.12.27/ アフガニスタンで、親ソ派勢力によるクーデターが発生し、ソ連が軍事介入する。

「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。 川上哲治。当時30代。

2022-07-04

Facebook 松崎 督さん曰く


仮の話である。
あなたが1951年=敗戦からまだ6年。講和条約は締結されておらず、米軍占領下の日本のスポーツ選手だったとする。もし、アメリカのチームからトレーニングに誘われ、その練習内容を見たら、どう反応するだろうか?
たぶん僕なら呆気にとられるのと、相手への警戒心と、文化の違いに理解ができなくて、結局何も得ないままに終わるだろう。極端な話、一年間のトレーニングに付き合わされたとしたら、刺激になるかもしれないが。
さて、時の名プロ野球選手だったこの男は、一時のメジャー春季キャンプの招待参加だったにも関わらず、その内容に衝撃を受け、そしてそれを「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。
川上哲治。当時30代。「打撃の神様」として名声を得ていた全盛期のことだ。
当時の日本球界は、選手の個人プレーや根性野球が主流である。選手は野球バカであり、野球ができさえすれば何をやってもよいという考えだった。監督の立場は弱かった。実際にプレーする選手が監督を排斥する運動まで起こしたことがある。川上もまたその一人だったが、考えをあらためていく。
それから10年後。川上は巨人の監督に就任した。「ドジャースの戦法」をベースに、サインプレー、守備のフォーメーションなど細かい戦術を磨く。更には様々な分野の人間を呼んでの講演会を催し、選手に人間教育を図った。ナアナアだったマスコミとの間に一線を引いて、情報の漏洩阻止も行う。時には移動日に大雨の降る中、自らもずぶ濡れになりながら、打撃練習を命じた。
その全ては勝つために自ら率先して「当たり前のことを当たり前にする」ことが根底にあった。
かくしてマスコミからは「非情」「つまらない」「面白くない」と叩かれていく。就任から数年は苦労したが、1965年からのV9は、川上のその方法が間違っていなかったことを実証した。「球際の強さ」という決してゲームを諦めない展開を川上は追及し、その執念が成せるものだった。「アメリカ野球に追い付き追い越せ」を訓示としたチーム作り。
その戦術は、巨人のメンバーにも影響を与えた。西武の監督に就任した広岡達郎は、巨人の戦術を極めての打倒巨人に執念を見せた。森祇晶も広岡が整備した戦力を生かし「負けない野球」を標榜し、チームを6度の日本一に導く。そこからまた当時のメンバーが監督になる。
築かれた強さの伝統というのは、その土台がきちんと整えば、先輩から後輩へとバトンが渡され、時に見直され、再確認されて結果も伴ってゆくのだ。一時的な物ならとっくに廃れただろう。広岡や森も「つまらない」と言われながら結果を残したのだから流石である。
もしも、メジャーのキャンプを見た川上が「こんなのは日本に合わない。自分もキャリアはあるんだからやる必要はない」と考えていたら・・・・。日本の球界は歴史が変わっていただろう。
感覚を研ぎ澄ませ、安易な方向に走らず、ナアナアにならず、自分のいる世界だけが全てにならぬようにアンテナを張る。自らを磨く。
ぬるま湯漬けの世界でなら「今で十分やれるのに、何を考えてるんだ?」「あれは何をクソ真面目につまらん面倒なことをしてるのだ」と言われるだろう。
だが「今まで人がやってないから一切やってはならない」という道理はあるまい。世の創意工夫やチャレンジは「誰もやってないからやる」ことから始まるのでないか?
やらなかった後悔より、やって後悔した方が人生の幅が広がるように、私は思うのだが・・・。
「どうせやったって無駄だ」「やめとけ」
僕もこんな言葉を他人にかけたし、かけられたこともある。慎重な行動を求め、心配をしていただいている気持ちが根底にあるが、時にそれは情熱や意欲を奪うことにもなる。
それが先行すれば世界の沈滞を招くことになるだろう。
私はいつ終わるやわからぬ人生なら、不必要に他人の顔や空気を伺わず、積極果敢にチャレンジしてみたい。
難しいことも多いのは承知の上で。

東京都慰霊堂と東京都復興記念館の展示物。

2022-07-04
Facebook 春 九千さん曰く
もうすぐ3月10日で、東京の浅草出身の者としては1945年3月10日に下町を焼き払われた東京大空襲の日です。
私はこれについては日本側に立って書かれた体験記やアメリカ側の記録など色々と本を読んでいますし、親戚には火の中を逃げ延びた者もいます。
さて、現在もウクライナで一般民衆までがロシアの空襲にさらされていますから、ロシアは早くプーチンの言う「軍事作戦」を止めて欲しいです
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