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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎鎌倉幕府の滅亡

2022-11-19
facebook佐々木信雄さん曰く
後醍醐天皇
新田義貞
【14th Century Chronicle 1321-1340年】
◎鎌倉幕府の滅亡
*1324.9.19/ 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変)
 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。
*1331.8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱)
*1331.9.11/ 楠木正成が河内赤坂城で挙兵する。
*1331.9.29/ 幕府軍が山城笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。
*1331.10.21/ 河内赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。
*1332.11.-/ 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成が千早城で挙兵する。
*1333.4.29/ 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、丹波篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。
*1333.5.7/ 足利高氏・赤松則村らが京都六波羅を攻略する。
*1333.5.21/ 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。
 幕府が朝廷へ介入したことによって、持明院統・大覚寺統の両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流の後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
 文保2(1318)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。正中1(1324)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝・日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。
 元弘1(1331)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。
 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。
 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、正慶1(1332)年、河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。
 幕府は大軍を差し向け、まず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。
 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、元弘3(1333)年閏2月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。
 幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家が赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏は赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。
 六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。
 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。
(この時期の出来事)
*1322.-.-/ 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。
*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。
*1331.-.-/ 吉田兼好「徒然草」が完成する。
*1339.-.-/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。
足利高氏(尊氏)
楠木正成
幕府が朝廷へ介入したことによって、持明院統・大覚寺統の両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流の後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かれて対立していた。
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