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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

実るほど頭を垂れる稲穂かな

2020-09-03
平成18年4月のことば

4月は学校では入学の、会社では入社の季節です。入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんは、新しい世界でいろいろなことを学び、吸収し、成長していく自分や、新しいことにチャレンジする自分への期待と希望に胸をふくらませていらっしゃるのではないでしょうか。これから進まれる新たな環境のなか、皆さんが日々試行錯誤し努力しながら、一歩一歩着実に成長していかれますことを心より念じております。

さて今月は、新たな一歩を踏み出される皆さんが今後さまざまなことを学び、経験されていくうえでご参考になればと思い、「人間の知恵」と「仏の知恵」について考えてみたいと思います。

まず人間の知恵とはなんでしょうか。広辞苑によると知恵とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。人間の知恵には、生きるための知恵、仕事をスムーズに進めるための知恵、成績や結果を出すための知恵などさまざまな知恵があると思いますが、その知恵を得るために私たちは多くの知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけようと頑張ります。つまり自らが「賢くなろう」と努力するわけです。

これに対し、仏の知恵とは、仏の方から私たちに働きかけ、さまざまなことに執着し、他者と比べて優劣を気にし、他人を妬み嫉む自分の姿に気づかせ、目覚めさせてくれます。この働きを仏教では光と表し、仏の知恵の光に照らされ、私たちは今まで見えなかったことを見えるように、気づかなかったことに気づかされ、目覚めさせていただきます。つまり煩悩まみれの自分の姿に気づき、ただ頭が下がるようになります。

このように人間は自ら賢くなるように努力し、知恵をつけようと頑張るのですが、ついてきた知恵を誇り、自分の力で生きていけると思うようになると横柄になります。また、自分の言うことが正しく、自分は善人であると思い込んでしまいます。自分の力で生きていると思っているので、仏の働きに見向きもせず、自分の姿を正しく見ることができなくなり、おのずと頭が上がってしまいます。

「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を皆さん一度はお聞きになられたことがあるのではないでしょうか。この言葉の意味は、「故事・俗信 ことわざ大辞典(小学館)」によりますと、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」とあります。頑張って身につけた知識、学問、教養が本当に深まり、身についてくると、おのずと人格も形成され、周囲に対し「お陰様で」と謙虚になり、思いやりの心を持って接することができるようになります。この「深まり」こそが仏の知恵の働きかけであり、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、すぐ思い上がり、自惚れてしまう私たちに、そうした自分の姿になってないか問いかけてくれる言葉ではないでしょうか。

近年、自らの知恵を頼み、高圧的になったり、自分の意見以外は間違っていると固執する人が増え、人間関係や社会がギスギスすることが多くなってきたように感じます。「お陰様で」というこれまで大事にしてきたことが薄れてきたようにも感じてしまいます。これから入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんには、知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけるプロセスの中で、頭が上がりがちな自分の姿に気づかせてくれる仏の働き(知恵)に素直に耳を傾ける心がけを持っていただきたいと思います。そうした心がけを持って日々精一杯努力することで、皆さんの人生がより実りあるものになるのではと思うのですがいかがでしょうか。(宗教部)

 

https://gakuen.koka.ac.jp/archives/571

『観経』に照らしてみますと

2020-09-05
757
一心に摂取不捨の利益にあずかるというけれども、摂取不捨の利益にあずかって信心が一心になるのです。摂取不捨の利益にあずかって一心になる。信心が一心になる。易往無人のほうは『大無量寿経』ですけれども、今度は『観経』に照らして表わしてあるのです。
 
758
『教行信証』では「信巻」の後のほうに、本願成就の文に続いて「現生十種の益」というものが挙げてある。これは結局、最後の住不退転、即得往生住不退転、不退転の一句に帰着するのです。唯識のほうで爾時唯識性に住するといってあるのはどういうことかというと、つまり住不退転なのです。正定聚住不退転を『唯識論』の言葉では唯識の実性に安住すると。
759
心光摂護の一心というのは、これは観経によって照らしてあるのです。現生十種の益では現生ですから未来ではないのです。本願が現在に成就する。本願が現成するという意味です。本願成就ということは、今この時に、この人の上において成就する、現成するというのです。現実となるわけです。現実として成就するということが本願成就という意味です。

折伏

2020-09-05
755
教理というものを通すというと、やはり折伏(しゃくぶく)というようなことになるでしょう。そういうことも、ひとつの強みはあるのです。先に言ったように個人主義というものを破るためには、分からないやつは暴力をもちいてもひっくり返すと。
756
折伏などはこういうような個人主観を破るという意味はあるけれども、どうもそれは外的な事柄であって、それでは自覚にならない。教学が自覚の教学にならない。だから『歎異抄』でも「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とあるでしょう。これなのです。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」というのが心光摂護の一心である。

教理学

2020-09-05
753
「時」ということと「人」ということが本願成就においては非常に重要な概念になるのです。これはやはり「自覚」ということであって、仏教の大事な点でしょう。自覚というものを人に強制することはできないのです。そうすると教理を押し付けることになるでしょう。
754
いっぺんに何百人を洗脳するとかということは思想的に暴力です。教理というものを押し付けるということになると暴力でしょう。だから人間は必ず反抗するのです。自覚というのは「時」を待たねばならない。その人自身が頷くより道がない。そういうことを無視して押し付ければ、それは教理学でしょう。

「についての」学問

2020-09-05
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
770
なにかギリシャにはやっぱり哲学というものがあったんだけど、ご承知のようにソクラテスからまぁ一つのギリシャの哲学というものがはっきりしてくる。それまで、ソクラテスは何から区別するかというと、ソフィストというのから区別しとるですね、ソフィスト。これがつまり言ってみれば「世智」というものでしょう。
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。
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