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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

易往無人

2020-07-28

729
無人という言葉が非常に大事なのです。易往無人の易往というのは自然(じねん)の道理をいう。自然の道理に依るが故に往き易いと。努力で、という意味ではないのです。自然の道理が往き易いのです。つまり往くまいと思っても往かされるのです。

 

730
我々のほうで往こうと思って往くのではないのです。往くことを思う思わないを超えて往かされるのです。道理のはたらきを易往というのです。けれども人が無いというのでしょう。だから無人は大事な言葉です。信心というものは、本願が人の上に成就する。如来が人の上に成就する。人ということが非常に大事なのです。

 

731
本願の成就という場合は、本願は原理ですから、願が信として成就すると。その願は人の上に成就するのです。つまり人が生まれてくるのです。「人が生まれる」ということが教理を超えることなのです。仏法が生きているか生きていないかは教理の有る無しではない。人が有るか無いかです。これは大事なことでしょう。人というものが、法から生まれているか、生まれていないかです。人がいないなら教理があるだけでしょう。

摂取不捨の利益

2020-07-27

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」 

           (『歎異抄』第一章)


 この言葉について、佐野明弘師が、「『念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき』如来が成就し衆生が成就する。如来と私を信心で結ぶのではない」と言われた。
 私は、それまで、やはり私がおって、その私のところに「念仏もうさんとおもいたつこころがおこる」と、そういうふうにイメージしていた。佐野先生のこの言葉にふれて、そうではなかったと知らされた。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、久遠の昔から迷いに沈み行き場を失ってさ迷い続けてきた自身が、初めて生れ、また、その自身を呼び続けていてくださる如来が、初めて生れるのだった。そのような久遠の時間世界が開かれ、久遠の自己が生れることを、「摂取不捨の利益」と言われていたのだと知らされた。

【住岡夜晃法語】

2020-07-20
洗濯する時に料理はできない
作(な)すことは一事である
しかしその中に動くものは全人格である
念仏一つに生きる
それが全人格の動きである時
我らはそれを救済といい信念とよぶ
 
【住岡夜晃法語】

若き求道者の生涯は、28年間でした。

2020-07-06

法蔵菩薩の絶対不二の働き

2020-07-18
『曽我量深講話録』一・164頁より

■「われわれが、どんなに絶望し自暴自棄しても、仏さまはそれを見捨てないで、われわれを信じて下さる。その仏さまの信が、本願というものになっている。ただ衆生が気の毒だというだけではない。やはり、われわれを信ずるということがあるわけである。信ずるのはわれら衆生というが、もとは仏さまがわれわれを信ずるところにあるのである。私というものを無条件に、どんなに自分が自信を失おうとしても、仏さまに信じられている。仏さまは、私を信じて捨てない。そういうことに私どもは目ざまさしてもらい、仏さまを信ぜずにおれない。こういうところに、真実信心というものが初めて成り立つ」
(『曽我量深講話録』一・164頁より)

■金剛とは、元々は「堅くていかなるものにも破られることがない」という意味ですが、「いかなるものにも破られることがないもの」とは、本当は堅いものではなくて、水のように柔らかくてあらゆるものに随順していくものでしょう。仏さまの心は、私どもがどんなに自分に絶望して自分を捨てようとしても、それにさまたげられることなく、水のようにどこまでもわれららに付き従って決してわれらを捨てられない。そのような仏さまの心のことを、金剛の信心というのでしょう。私どもの身の深いところに、誰の中にも平等に流れている法蔵魂こそが、そのような金剛の信心と言えるものではないかと思います。「不二」とは、決して離れずにあたかも一つの存在のように私どもの宿業の身と運命を共にする法蔵菩薩のはたらきのことをいうのでしょう。

■ちょうどこれを書いている時ツィッターを見たら、Yuko Itoさんが次のような投稿をしておられたのでびっくりしました。

「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望すること はない」(V・E・フランクル)
 
 いやー、これは、まさに法蔵菩薩の絶対不二の働きをあらわしている言葉ではないか、と思いました。こういうのを「金剛(何ものにもさえられない)の信心」というのでしょう。

「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない」(V・E・フランクル)
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