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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

超越ということ

2020-07-17
 

722
だから超越といってもただ有限を超越して無限になるという意味ではない。主観を破ることを超越というのです。主観の固執を破ることを超越という。超越という言葉も思想が変わればみな変わってくる。有限を超えて無限にいくということは超越とは言わない。有限の固執を破るのです。

723
有限をやめるというのではないのです。有限の固執を破れば、有限のままが無限なのです。有限を捨てて無限に超越するのではないのです。有限の固執を自覚すれば有限のままが無限なのです。固執という妄想を破って道理に目覚めると。ですから超越が自覚的なのです。

法爾自然の道理

2020-07-15

719
無為自然というようなことも法爾自然の道理なのです。人間がそれを見出しそれに適うところに独立した人間が成り立つのです。道理を無視するところに人間は流転するのです。道理を無視するなら主観の固執です。

721
罪の自覚です。これはギリシャの哲学でも及ばないような深さで罪を自覚するのです。それがキリスト教では非常に神話的ですけれども、仏教ではやはり主観の固執ということがひとつの罪です。これは大経二十願の自覚です。十九願も罪なのだけれども十九願は罪の自覚がないのです。肯定しているのです。

宿業に随順できるようなものを見出すこと

2020-07-12

717
好き嫌いで人間は悩み、ノイローゼになるわけです。なにも宿業の道理で悩みはしないのです。宿業が分かれば随順できるのです。宿業を蹴飛ばすのが宿業の解脱ではない。宿業に随順できるようなものを見出してくるということです。

718
みな宿業、宿業と言ったりしていますけれども、それは「嫌なものだ」という主観的解釈でしょう。それは宿業が分かったのではない。分からないからそういうことを言っているのです。宿業という言葉も容易に使えないでいる。

業ということ

2020-07-11
宿業因縁

715
例えば業というようなことも、業で流転しているというのは、無茶苦茶に道理をはずして流転しているのではない。道理がなければ流転もできないのです。流転を支えている道理は業因縁です。流転も宿業因縁の道理に支えられているのです。

 
宿業の道理

716
宿業ということも、だから人間の主観でどうにもならないのを宿業というのでしょう。主観の自由にならないのです。宿業の道理が分からないから宿業を嫌うのです。好き嫌いを入れたら主観でしょう。好き嫌いで人間は自分で悩むのです。

natura

2020-07-07
自然(じねん)という言葉

712
一番だいじなのは横超ということです。そこに自然(じねん)という言葉がある。自然の道理です。道理で貫かれているということです。自然(じねん)という言葉もなかなか翻訳しにくいのですけれども、言葉としては三つも四つもあるものではない。ラテン語ではnaturaです。ギリシャにも中国にも皆あるのでしょう。人類のもっている最も古い言葉がナトゥーアなのです。

714
「自然じねん」の思想的理解です。自然(じねん)という言葉は世界共通で、こういう言葉は他にありません。自然(じねん)をいかに考えるかということが思想的課題です。法爾というのは自然を哲学したのでしょう。因縁の道理というのもみな自然の道理です。自然の道理に触れれば人間の妄想は破られる。

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