本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

『香月院語録』 法蔵館

2020-05-05
大谷派の教学は、学寮での宗学をその源流とします。
香月院深励師似影(永臨寺所蔵)

田畑正久先生のことば

2020-11-06
大分合同新聞医療欄
「今を生きる」第385回
(令和2年8月10日掲載)
医療文化と仏教文化(211)
仏教の言葉に「おのれさえ おのれの ものでない」という言葉があります。
自我意識ができる前に身体は生まれてきています。自我意識は成長と共に発達してきます。意識自体は眼、鼻、耳、舌、身の五つの感覚器官で感じたものをまとめて認識する機能を持っています。意識は幼い頃はあるがままの自分を受け止めて生きていたのです。身体の快・不快、痛い、かゆいは身体的表現で知らせるでしょうが、心の不足不満はあまり感じてなかったでしょう、比較することがないのですから。
身体と意識機能はコンピュ-ターのハード(固定した装置)みたいなものです。そのハードをどういうソフト(運用方法など)で使うかは、発育の過程での周囲の環境から学ぶのです。日本に住んでいるならば、日本語を学び、生活習慣を身に付け、遊びなどの人間関係で社会性を学び、学校で基礎文化を教えられます。
 成長と共に自我意識が発達して私という「我」があり、私の「身体」、そして種々の「我が物」があると考えるようになってきます。意識は後に出てきたのに、身体を自分の持ち物のように私有化していきます。そしていつの間にか管理支配するようになっています。しかし、厳密には身体は「縁起の法」によって成り立ち、動いています。
身体は法によって動くために、背の高低、病気になる、走るのが遅い、容姿が親に似ているなど、自我意識の思い通りにならないことが起こります。するとそのことが苦や悩みになります。自我意識は自分が悪いと全く思いませんから、その苦悩の原因を外に考えます。そして自分は被害者であるかのように思い、自分の置かれた状況に愚痴を言い始めるのです。何でこの両親の下に、何でこの家に、何でこの社会状況、時代状況の中に生まれてきたのかと。仏教では私自身の全ては私有化すべきではない、「賜(たまわ)り物です」と教えてくれるのです。

信國淳先生の話

2020-10-19
Facebook田畑正久さんの投稿より
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第384回
(令和2年7月27日掲載)医療文化と仏教文化(210)
宇佐市出身の信国淳(あつし)(1904- 1980年)先生は、真宗大谷派の僧侶を養成する大谷専修学院院長を長年務めました。学院の基礎をつくり、多くの人材を育てられました。先生の法話の中に次のような話があります。
ある日、少年だったお釈迦様が従弟の提婆(だいば)と一緒に森に遊びに行った。提婆は森の上を飛んでいる白鳥を見つけ、弓で射落とした。2人は獲物を手に入れようと駆け出した。そしてお釈迦様の方が早く見つけ、傷つきあえいでいる白鳥を抱き上げた。そこへ提婆が来て、射落とした自分のものだから返せと迫る。お釈迦様は、先に見つけたのだから自分のものだと譲らない。事の決着は、国中の賢者に委ねられたがまとまりません。
その時、一人の年老いた賢者が「全ての命は、それを愛そうとしている者のものであって、それを傷つけようとしている者のものではないのだ」と言われた。それを聞いた多くの人は深くうなずき、従わずにはおれない厳粛な気持ちになった、という内容です。
命は、それを愛するものにおいてのみ、命自身をのびのびと自由に生かすことができるから、生きる喜びに出合うことになると思われます。仏教は自由自在に生きる道を教えるのです。
自我意識が出てくる頃になると、「身」を自分のものだと思う様になります。小学校高学年、中学生ぐらいになると、自分の境遇を他と比べるようになります。自分の体力、運動能力、知力、親や家の職業、経済状態、住んでいる地域、さらには国や時代状況を分別して善悪、好き嫌い、格好の良い悪い、世間の評判などで自分の「身」を判断します。
どれも自分の理想の状況と比べると足りない。嫌だ、格好悪い、何でこういう境遇で…と、私は不足不満でいっぱいでした。その心境を生きていくのは、前出の老いた賢者の言葉を借りると、自分を愛そうということではなく、傷つけようとしていたのではないか。自分の思いが仏智に照らされて、がくぜんとしたのを覚えています。

業について

2020-10-27
FacebookRIZIN YASUDA
822
業には共業・不共業ということがありまして、境遇というものは、これは共業なんだ。水は、人間にとっては飲むものですけど、魚にとっては住処ですわね。そうすると鯛にとって住処である場合にはカレイにとっても住処なんだ。それは業が似ておるんです。カレイと鯛という海水に生きる動物という境遇というものが共通しとる。つまり共同に海を感ずる。共同の運命や。運命の共同体だ。

教学、教学といっとるけど、理論をやっとるんやないかね。

2020-10-11
Yasuda Rizin
807
仏教でも、今いろいろと運動というものが出とるが、僧伽といったら教学が中心ですわね。僧伽の事業といえば教学中心なんだ。それを理論を立てるように考えるのは大きな間違いですわね。教学、教学といっとるけど、理論をやっとるんやないかね。それは大きな考え違いじゃないか。
TOPへ戻る