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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

解脱が悪いのとちがうんだ、解脱が小さいんだ。

2020-09-22
788
そういうわけで、解脱が悪いのとちがうんだ、解脱が小さいんだ。それで解脱というとなにか逃げるという形になる。そうではなくて、解脱という意味をもっと徹底して、解脱で逃げることからも逃げなきゃいかん(笑)。それが世間に住せず涅槃に住せずという、住するところがないんだというところが、これが仏教の住するところ。逃げ出すというようなのは、解脱が小さい、低いからです。解脱といいながらその中にまだ個人性を含んでおる。

現世利益が流行るのはね。

2020-09-21

 

786
日本ではだんだん仏教学が要らんようになってきて現世利益の宗教というものがはびこっとるんですが、ああいったものは、いってみれば解脱という問題を忘れるというと、そういう現世利益になるのです。健康とか幸福とかが問題になってくるところに現世利益というものがある。だから本当の意味の、純粋仏道が濁っている結果なんだ、現世利益が流行るのはね。

カルビンについて

2020-09-17
FacebookYasuda Rizinより

 

783
そういう意味で、こんにち皆さん知っておられるように、資本主義社会というようなもの、資本主義社会は「儲け」ですわね。金儲けです。つまり経済的人間の社会ですわね。だからして、それは苦しかった。金を儲けるということは悪やと。それをどうして、金を儲けることをできるようにするかと言えば、それは神への奉仕だというような、そういうようなことをやったのがカルビンですわね。

菩提心

2020-09-08
774
だからして、仏教学といっても全体が世間学なんだ。菩提心に立たんというなら、どういうことになるかというと、名利になる。なぜ世智をきらうかというと名利だからです。つまり、名利でもないし菩提心でもないというような、そういう立場はないのです。
773
それは何かというと、仏教を知らずに、仏教の外から、世間という立場から仏教を取り扱う。こういうのは、取り扱われとるものは仏教だけれど、取り扱っている立場は仏教じゃない。つまり菩提心というもの、宗教心というようなものに立たない学問です。それを世智という。
 
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。

本多弘之「「願に生きる」ということ」

2020-09-08
[9月HP更新] 本日は本多所長書下ろしコラム「濁朗清風」をお届け!
■本多弘之「「願に生きる」ということ」(3)
親鸞による本願の受け止めとしての信心は、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(聖典430頁)に、見事に結実している。その背景には、『教行信証』「信巻」の厳密な内省的考察があることは言をまたない。真実信心の発起する根本原因を、第十八願にあると見定めた親鸞は、それに対応する機の願(第十九・二十願)によって、「化身土巻」の内容を考察していかれた。その発想の気づきは、願自身を表現している「言葉」の重視とその熟察からきていると思われる。
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