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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

◎米で日本移民排斥

2021-03-17
*1924.5.23/ スターリンが、ソビエト共産党第13回大会で、トロツキーらの反対派をプチブル的と批判する。
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1924年(t13)】
◎米で日本移民排斥
*1924.4.12/ アメリカ下院で、新移民法案が可決。
*1924.5.26/ クーリッジ米大統領が「新移民法」に署名。日本からの移民は事実上禁止され、反米意識が高まる。以後、ブラジルなど南米への移民にシフトする。
 この「排日移民法」は、この年の7月1日から施行されたアメリカ合衆国の法律であるが、正確には「1924年移民法」、または「ジョンソン=リード法」と呼ばれる。本来は、日本人移民のみを排除する法律ではないが、事実上、日本からの移民が不可能になったことをもって、日本側からそう呼んだ。
 既存の「連邦移民・帰化法」に、移民制限規定が修正・追加されたもので、1890年にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするという内容であった。これは実質的に、それ以後に大規模な移民が始まった東欧・南欧出身者を厳しく制限することがねらいであったとされる。
 アジア出身者については、既に別個に、全面的に移民を禁止する条項が設けられており、当時、日本人だけがアジアからの移民を許されていた。移民・帰化法では「帰化不能外国人種」が規定されており、日本人を含むアジア人はすべてその対象であったが、この移民法追加条項で「帰化不能外国人の移民全面禁止」が追加された。それにより、帰化不能外国人で唯一移民可能であった日本人も、移民が不可能となった。そのため日本では、日本人をターゲットにした「排日移民法」とされることになった。
 アメリカにおけるアジア系移民は、1848年のゴールドラッシュからはじまった。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州で低賃金肉体労働に従事したが、競合する白人貧困労働者との対立・抗争が起こり始める。1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法では、「帰化可能」なのは「自由なる白人」とされ、アジア人は「帰化不能人種」とされた。
 日本人の移民は、ハワイ中心に明治時代初頭から見られ、やがてハワイ経由で米大陸本土への移民も盛んとなる。中国人移民が制限され、相対的に日本人移民が増えると、一部西海岸などで排日的な動きが見られた。それでも連邦レベルでの移民・帰化法では、日本人はアジア民族の中で唯一、移民全面停止を蒙らなかった。それは当時、いち早く近代化したアジアの国として、欧米諸国と対等の外交関係が可能と考えられたからであった。
 そんななかで、1906年、サンフランシスコにおいて「日本人学童隔離問題」が起こると、関連してハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。危機感をもった日本政府は、一連の「日米紳士協定」を結び、日本政府によって自主的に制限することになった。それでも地域レベルでは、様々な制限が加えられた。
 連邦レベルでの「排日移民法」は、当初は、東欧・南欧など後発組白人移民の制限を狙ったものであったが、日本人移民が目立ちだしたカリフォルニアなどの州レベルでは排日気運が強く、結局は、事実上日本人移民を禁止する条項変更がなされることとなった。
 この排日移民法によって、以後、新大陸への移民は南米ブラジルなどにシフトするが、もともと中国大陸への移民が圧倒的な数を占めていた。その前からの自主規制もあって、「排日移民法」による実害は、年間期待の数百名がゼロになった程度であった。ただし、排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み出して、対米感情を悪化させていったことはたしかである。
(この年の出来事)
*1924.4.6/ イタリア総選挙で、ファシスタ党が絶対多数を獲得、ムッソリーニの独裁体制が完成。
*1924.5.23/ スターリンが、ソビエト共産党第13回大会で、トロツキーらの反対派をプチブル的と批判する。
*1924.6.11/ 憲政会加藤高明を首相に、第1次加藤内閣(護憲3派内閣)がせいりつする。
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