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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

宮さん 参謀長有栖川宮熾仁親王

2021-01-16
有栖川宮薨去
Facebook英霊の本日の出来事

 
明治28年1月15日の本日、参謀長有栖川宮熾仁親王が薨去なさいました。
有栖川宮 熾仁親王は、天保6年2月19日に生まれました。
江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。
號は初め「泰山」、後に「霞堂」。
階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。
有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮。
生母は家女房の佐伯祐子。
官職は任命順に、大宰帥、國事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに縣知事、縣令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島縣逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。
和宮親子内親王と婚約していたことで知られます。
和宮との婚約は時の政治情勢により叛故となり、舊水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年7月に舊越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚しました。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年に61歳で薨去。
有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶。
明治27年に勃發した日清戰爭において、熾仁親王は参謀総長として廣島大本營に下るが、この地で腸チフス(當初はマラリアと診断された)を發症し、兵庫縣明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸にて静養に入る。
症状は一旦軽快したものの翌明治28年に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日にはついに危篤に陥る。
その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授豫を決定した。
翌1月15日、熾仁親王は終戰を待たずして舞子別邸にて61歳で薨去。
さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授豫されたが、公式發表における薨去の日付は、実際には遺體が東京に歸着した日である24日と發表されました。
熾仁親王の葬儀は國葬となり、豊島岡墓地に埋葬されました。
因みに、トコトンヤレ節は品川弥二郎が作詩しました。
師である吉田松陰を罪人として処刑した徳川幕府を恨み、倒幕を「トコトンヤレ」と囃はやしたてた歌とされてます。
現在伝えられている歌詞には何種類かあるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
作曲は大村益次郎であるといわれています。
宮さん宮さん 御馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか
トコトントンヤレ トンヤレナ
一天萬乗の 一天萬乗の 帝王に手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ トンヤレナ
音に聞し 關東武士 どっちに逃げたと問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ
この曲は日本で最初の軍歌と言われています。
”宮さん”は東征大総督の有栖川宮熾仁親王の事です。
(ウィキペディア参照。)
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