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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

戦いの前夜です。

2022-10-13

facebook阪急文化財団さん曰く


館長の仙海です。
毎月13日は「13DAY(イチゾウデイ)」として小林一三に関するトピックを綴ります。
吉本興業の創業者、吉本せい(1889-1950)は、吉本吉兵衛と結婚して「吉本興行部」を設立します。1924年、夫が亡くなってからは実弟の林正之助を片腕に事業を拡大しました。
1932年「吉本興業合名会社」に改組し、東京支社も起ち上げます。以降、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を次弟の林弘高が率い、姉の吉本せいが大芸能プロダクションの社長となって両者をまとめました。
その1932年、東京砧でトーキー録音の開発を進めていた植村泰二が、株式会社写真化学研究所を設立し、小林一三は相談役に就任します。同社は本格的トーキー・スタジオを完成させ、東宝の前身の一つとなりました。翌年、株式会社P・C・L映画製作所を創立して映画の制作を始めます。
1935年、吉本興業は、P・C・L映画製作所と提携し、映画制作に乗り出します。写真はこの年、P・C・Lのスタジオ前で撮られたもの。左から2人目、パナマ帽に白いスーツでモダン・ボーイと洒落込む小林一三。そして右から3人目のシックな着物姿はコウ夫人です。一三が早くから東宝の映画製作に関わっていた事が窺われます。ところで一番左端、失礼ながらこの場に似つかわしくないようなオバチャンが、一三と並んでいます。誰あろうこの方こそ、吉本せいさんでしょう。正にP・C・Lとの提携に、東京へやって来たその時の記念写真かと想像されます。
翌年、株式会社東京宝塚劇場、P・C・L映画製作所、そして京都のJ・O・スタヂオが提携し、東宝映画配給株式会社を設立します。吉本興業も東宝映画配給と提携するなど、吉本と東宝とが接近しました。またこの年には、吉本興業と東京宝塚劇場とが提携し、吉本の芸能人が東宝系の演芸や映画に随時出演する道を開きます。
1937年、東宝映画株式会社が設立され、写真化学研究所、P・C・L映画製作所、J・O・スタヂオ、東宝映画配給の4社を吸収合併、製作と配給との一体化に取り組みます。P・C・L映画製作所は東宝映画東京撮影所(現、東宝スタジオ)となりました。
この年、小林一三は株式会社江東楽天地を創設します。東京錦糸町の駅前に空き地となっていた、汽車製造合資会社(現、川崎重工業)の工場跡地8000坪に、東宝系の映画館などをオープンしました。一三は「東京下町の大衆に健全な娯楽を提供」しようと「江東楽天地(現、東京楽天地)」と命名します。先ず同年に、江東劇場と本所映画館とが開館しました。
1938年には、江東楽天地に吉本興業の経営による江東花月劇場が開場し、落語・漫才・曲芸などの大衆演芸場となります。さらに須田町食堂(現、株式会社聚楽)の大食堂、そしてスポーツランドや遊園地なども開業し、浅草と肩を並べる遊楽地として賑わいました。
そして1939年、吉本の林正之助が、一三に乞われて東宝の取締役に就任します。
1941年には、吉本興業とともに東宝演芸株式会社を設立し、同社が興行を担当しました。この後、日劇小劇場、神田須田町の神田立花亭、牛込の神楽坂演舞場など各所で、東宝演芸による名人会が開催されました。
吉本と東宝との密な連絡は、興行界における松竹との対抗に狙いがあったのです。
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