ファイトの系譜
【 オールラウンド編 含TOKYO2020の記録】
松山英樹 2位タイで最終日へ
松山英樹 2位タイで最終日へ
ゴルフの第3ラウンドで松山英樹は、ボギー発進となるも、すぐにバーディー2つで立て直すと、さらに前半2つのバーディーを重ねた。後半は粘りのゴルフとなるが、17番ホールでバーディーを取って、再びトップタイに浮上。5バーディー1ボギーで第3ラウンドを終え、トータル13アンダーの2位タイとした。最終日は最終組で金メダルを目指す。また星野陸也は1バーディー、1ボギー、1ダブルボギーの73で55位タイとなった。
松山の話 なかなか思うようにいかなかったが、途中スコアを伸ばせた。最後も17番で(バーディーを)取って終われてよかった。いい位置で3日間終われたので、明日やりきるだけ。頑張りたい。(金メダルは)あまり考えずに、自分のできることをやった結果がそうなればいいと思う。
星野の話 ティーショットが全然駄目だった。スタートで曲げて、微調整しようとしたができなかった。(最終日は)いいスコアで回って一つでも順位を上げられるようにしたい。
アーチェリー男子個人で古川が銅メダル「歴史に名を残せた」
アーチェリー男子個人で古川が銅メダル「歴史に名を残せた」
アーチェリー男子個人の3位決定戦、ロンドン2012オリンピックの銀メダリスト古川高晴は湯智鈞(チャイニーズ・タイペイ)に7-3で勝利し、銅メダルを獲得した。
3位決定戦の相手は20歳の湯智鈞で、準々決勝でリオデジャネイロ2016大会王者の金優鎮(大韓民国)を下している成長株だった。この難敵に対して、古川は高い集中力を発揮して全15射のうち8射を10でまとめた。最終第5セットの銅メダルが決定する3射目も10とし、7-3で勝利した。
古川は今大会、男子団体でも銅メダルを獲得しており、東京2020大会で2つ目のメダル獲得となる。
古川高晴 歴史に名を残せた
うれしさよりも、まず感謝の気持ち。多くの方に支えられ、ここまで来られた。歴史に名を残せた。東京での大会なので特別。点数を意識せず、自分の理想とする撃ち方を意識した。最後もタイミング良くちゃんと撃とうと思った。(パリ五輪では)ミックス(混合団体)を取りたい。子どもが生まれた年はいいことがあると言われていたが、その通りになってうれしい。
野球日本代表、アーチ2本で連勝
野球日本代表、アーチ2本で連勝
評 1回裏にメキシコに先制された日本だが、反撃は素早かった。2回表に甲斐のタイムリーで1-1と追いつくと、3回表、浅村のピッチャーゴロの間に3塁ランナー坂本が気迫のヘッドスライディングを見せて逆転。先発の森下も2回裏、3回裏と連続三者凡退にメキシコ打線を切って取り、チームを勢いづかせる。4回表には指名打者の山田がレフトへ3ランを放ち、メキシコを突き放すと、5回裏、ダブルプレーの間に1点を返されるが、二番手・伊藤が6回裏から2イニングの好リリーフ。7回表に坂本がホームラン、8回表には盗塁を絡めて山田がタイムリーを放ち、最後は抑えのエース、栗林良吏がきっちり締めて7-4と快勝した。日本はA組1位通過で準々決勝に進出
ルーキーはおじぎで感謝
9回に抑えで登板したルーキー栗林は、最後のバッターを三振で締めると、キャッチャー甲斐に一礼。ウイニングボールを握りしめた手で、全員とハイタッチしながら笑顔でベンチに引き上げ、再度グラウンドに向かっておじぎした。大舞台で力を出しきれたことに感謝を表していた。
坂本「肩の力が抜けた」
7回にレフトへ追加点となる本塁打を放った坂本は、「詰まり気味だったが、1点を取りたいところで出て良かった。チームとしても今日は試合前の入り方が柔らかく、肩の力が抜けたかなと。ここからが大事なので、ひとつずつ勝っていきたい」。チームの顔の一人として、勝利後も引き締まった表情を見せた。
稲葉監督の話 先制点は取られたが、先発の森下がこの暑さの中、その後しっかり強力なメキシコ打線に対して投げてくれた。(リリーフ陣も)みんなていねいに投げてくれたし、打たれたところは選手自身が反省して修正するだろう。みんな頑張ってくれた。(山田)哲人の3ランはチームを勇気づけたホームランだったし、(坂本)勇人にも1本出た。今日は非常に効率よく点が取れた。(4盗塁は)初球、走れるチャンスがあるところで、みんな積極的に走ってくれた。次、相手がどこになるかまだ分からないが、一つ一つ、我々の野球をしっかりやっていく。
大野将平の言葉
講道学舎と天理大学。
この2つには、1964年に開催された東京五輪と大変深いつながりがある。
当時の“柔道”は、まさに日本の「お家芸」であり、特に重量級は花形だった。
しかし、その東京五輪で、重量級の神永昭夫選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れたのだ。
この敗戦で、日本柔道の危機を感じ設立されたのが講道学舎である。
そして、その日本柔道を破ったヘーシンク選手が、五輪前に武者修行していたのが天理大学。しかも、ヘーシンク選手を指導したのは、天理大学の初代師範であり、東京五輪の日本代表監督をつとめていた松本安市さんだった。
何ともいえない複雑な結果となったが、それらも含めて、私が歩んできた講道学舎と天理大学が、なぜか東京五輪にとても深いつながりがあるのだ。
そのつながりは、天理大学の大学院でより詳しく知ることになった。
リオ五輪で金メダルを獲得した私は、「次の五輪に向けてどういう気持ちで臨もうか」と考えていた。大学院で主に勉強していたのは、自身の柔道スタイルや技術のことであったが、研究室にあったいろいろな資料を通じて、天理柔道と前回の東京五輪とのつながりを学ぶことができた。
その中には、「ヘーシンク選手が大学のあの場所を走っていたんだ」と感じさせる資料まであり、『古き良き時代の“柔道”』、そして、『その歴史』に触れる経験をすることができた。
この期間で得た知識や経験が、もう一度、自分自身を奮い立たせるには、じゅうぶんすぎるほどの動機づけとなった。使命感ではないが「俺がやらなきゃ誰がやる」という気持ちに自然となったことを覚えている。
フェンシング男子エペ団体が優勝 金メダルは史上最多17個に
フェンシング男子エペ団体が優勝 金メダルは史上最多17個に
フェンシング男子エペ団体は決勝が行われ、日本がROCに45-36で勝利し、金メダルを獲得した。金メダルは日本フェンシング界初の快挙となる。
宇山賢、加納虹輝、山田優と若いメンバーで臨んだ日本。第1試合で山田がROCエースのビダを上回り、流れを引き寄せる。宇山も長身を活かしたフェンシングで持ち味を発揮。加納は最後、攻勢に出てくるビダを冷静に返り討ちして勝利。全員が持ち味を発揮して最後まで相手を寄せ付けず、45-36とROCを下した。
この金メダルで東京1964大会、アテネ2004大会を上回り、史上最多の17個となった。
宇山賢
まだ、あまり実感がない。どれだけパフォーマンスを出せるのか若干の不安はあったけど、緊張はしなかった。相手がやりにくそうにやってくれたので、自分のやってきたフェンシングが間違いじゃないと確認して決勝まで続けた。
山田優
個人戦で全然いいところを見せられず、へこんだが、立て直してくれたのはチームの仲間。仲間と一緒に表彰台の一番高いところに立てるのはうれしい。決勝よりも1回戦が緊張した。諦めずに勝負する気持ちを忘れずにやったことは大事だった。
見延和靖
(金メダルは)すごく大きな意味を持つ。エペはキング・オブ・フェンシングと呼ばれるように、人口が多い種目。強豪が多い中で勝ち取り、日本フェンシングの今後の発展へ大きな一歩を踏み出した。歴史的な瞬間になった。
【 オールラウンド編 】(アーカイブス)
橋本真也vs小川直也
名横綱、そして名理事長でした。
横綱に昇進し、奉納土俵入りで初の雲竜型手数入りを奉納する佐田の山(右)=1965年1月29日、東京・渋谷区の明治神宮【時事通信社】
大相撲の元横綱佐田の山で引退後は日本相撲協会理事長も務めた市川晋松(いちかわ・しんまつ)さんが2017年4月27日午前3時15分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。79歳だった。葬儀は家族葬で済ませた。
長崎県新上五島町出身で旧姓佐々田。1956年初場所、出羽海部屋から初土俵を踏み、60年春場所新十両、61年初場所新入幕。幕内3場所目の夏場所、平幕優勝を遂げて注目された。
62年春場所で2度目の優勝を果たし、大関に。65年初場所、3度目の優勝をして横綱に昇進した。名門出羽海部屋の猛稽古で鍛え、突っ張りからの右四つ、寄りが得意。人気は大鵬、柏戸に及ばなかったが、誠実で闘志あふれる取り口は横綱の名にふさわしく、優勝6回は柏戸を上回る。
病気などで不調の時期を経て67年九州、68年初場所と連続優勝して復活を印象づけたが、翌春場所6日目に突如引退を表明し、ファンを驚かせた。潔い散り際として語り草になっている。
師匠の長女と結婚して市川姓となり、引退後は年寄出羽海として部屋を継承。92年には日本相撲協会理事長に就任した。
その後、部屋を元関脇鷲羽山に譲り、年寄名跡を境川に変更して理事長職に専念。年寄名跡改革などに取り組んだが、協会内の反発で断念し、98年に退任した。2003年に定年退職した。
東京2020大会 迫力と感動の瞬間を世界に届ける、テクノロジーの進化が生む斬新な撮影
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【 プロレス編】
ファイトの足跡
【 ボクシング編 】
伝説は、ここから始まった・・・。
2団体王者井上尚が防衛 谷口はミニマム級新王座に
ボクシングのダブル世界タイトルマッチ各12回戦は14日、東京・両国国技館で行われ、世界ボクシング協会(WBA)、国際ボクシング連盟(IBF)バンタム級チャンピオンの井上尚弥(大橋)がIBF5位のアラン・ディパエン(タイ)と対戦し、8回TKO勝ちした。2年ぶりの国内試合でスーパー王座のWBAは6度目、IBFは4度目の防衛となった。
世界ボクシング機構(WBO)ミニマム級1位の谷口将隆(ワタナベ)は王者ウィルフレド・メンデス(プエルトリコ)に11回TKO勝ちし、新王者になった。谷口は2度目の世界挑戦だった。
◇WBO世界ミニマム級タイトルマッチ12回戦 〇谷口将隆 TKO11回1分8秒 ●ウィルフレド・メンデス(2021年12月14日 両国国技館)
WBO世界ミニマム級タイトル戦は同級1位の谷口将隆が王者のウィルフレド・メンデスを11回1分8秒TKOで破り、王座奪取に成功した。
「まだ夢見心地ですね。2年前の自分よりずっと強くなったと、ようやく自信が持てた」。会心のTKO勝ちが信じられないかのように、ベルトを巻いた谷口が興奮気味につぶやいた。
「挑戦者らしく」がテーマ。それを貫いた。判定で敗れた19年2月の初の世界挑戦。気負って力を発揮できなかった反省が原点にあった。いかにして相手の中に入って接近戦に持ち込むか――。インサイドワークという王者の持ち味を消す作戦を徹底的に練った陣営の執念が実った。序盤から決して下がらず前に前にと圧力をかけ、2回に左フックでダウンを奪うと、中盤以降も果敢に前へ出る。11回。左の振り下ろしで相手の動きを止め、コーナーに追い詰めて畳みかけるとレフェリーが試合を止めた。
同じジムには同学年のWBA世界ライトフライ級スーパー王者、京口紘人がいる。アマチュア時代からのライバルに先を越されたが、ようやく同じ「世界」の称号を手にした。青コーナーで励まし続けた盟友は「申し分ない内容。これから2人で引っ張っていこう」と激励。これに谷口も「勝利の女神ならぬ、男の神様」と感謝した。
「僕は(メインイベントの)井上君のおまけ」と控えめに話していたモンスターの“前座”が、存在感を十分に見せつけた。27歳の新王者は「来年は谷口の試合を見にこようと言われるボクサーになりたい」とさらなる成長を約束していた。
◇谷口 将隆(たにぐち・まさたか)1994年(平6)1月19日生まれ、神戸市出身の27歳。中1でボクシングを始め、神戸第一高ではインターハイ8強入り。龍谷大ではボクシング部主将を務め、国体で2度準優勝。アマ戦績は74戦55勝16KO19敗。16年4月プロデビュー。18年11月にWBOアジアパシフィック・ミニマム級王座、20年12月に日本同級王座を獲得。身長1メートル62、リーチ1メートル64の左ボクサーファイター。
【 ボクシング編 】(アーカイブス)
「エディ・最後の挑戦~老トレーナーと19歳の世界チャンピオン~」
日本で6人の世界チャンピオンを育てた名ボクシングトレーナー、エディ・タウンゼント。病魔と闘いながら19歳の若者に夢を託す、老トレーナーの最後の挑戦を追う。
エディ・タウンゼントは、1962年にハワイから来日して以来、四半世紀にわたってチャンピオンを世に送り出すことで、日本の少年たちに夢と勇気を与え続けてきた。彼が最後に育てたのは、19歳で世界チャンピオンとなった井岡弘樹。その初防衛戦に向けて、エディは大病を患いながら車いすで指導、試合の日は担架に乗って会場へ向かった。井岡は激闘の末、最終ラウンドで逆転勝利。最後まで情熱を燃やし続けるエディの姿を描く。
【出演】エディ・タウンゼント,井岡弘樹,藤猛,ガッツ石松,海老原博幸,友利正,柴田国明,田辺清,【語り】千田正穂
Facebook 井岡 弘樹さん曰く
ボクシング レジェンド王者伝説 畑山隆則 編【vs 坂本戦、鮮烈KO 6連発】
大場政夫
1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。
永遠のチャンプ
私が最も敬愛するボクサーです。
1949年10月21日東京都足立区生まれ。
実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しか
その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学
その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と
翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。
以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、
そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の
1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバ
この時、大場は21歳。
プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました
その後、2年半足らずで王座を4度防衛。
そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の
相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チ
大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。
その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのフ
しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優
前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛
ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ち
その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフ
1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継
終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした
小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。
決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピー
猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直
いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。
その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る
この試合の23日後、1973年1月25日。
大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都
現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。
大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネ
また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました
中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度
大場政夫
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛