ファイトの系譜
【 オールラウンド編 含TOKYO2020の記録】
村田諒太VSゴロフキン〜ボクシング史に残る世紀の一戦〜
佐々木朗希完全試合、担当記者が凝視した105球
Facebook 時事通信社さん曰く
佐々木朗の2試合続けての快投を、米メディアも驚きをもって報じた。
スポーツ専門局ESPN(電子版)は主要ニュースの一つに位置付け「日本のphenom(天才)、佐々木朗希が連続パーフェクトを17イニングに伸ばした」と報じた。ニューヨーク・ポスト紙(電子版)は「(8回2死からの)最後の三振を163キロの直球で仕留めた」と20歳の底知れぬ体力に驚嘆した。また、CBSスポーツは「いつMLBに来るのか?MLBファンがササキを見る最もいい機会は来春のWBCだろう」と“世界デビュー”に期待を寄せた。
日本人大リーガーからも前回に続いて称賛の声が上がった。佐々木朗のロッテ時代の先輩であるレッドソックス・沢村は「誰もが持てるわけではない才能を持っている。なおかつ努力している」。パイレーツ・筒香は8回を終えての交代に「チームと佐々木君の将来を考えて、勇気ある決断をされたのだと思う」と話した。
待望の“日本ボクシング史に語り継がれるであろう”ビックマッチ!
今春、ボクシングの歴史が変わる。4月9日(土)にさいたまスーパーアリーナで、ボクシングWBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(36=帝拳)と、IBF同級王者ゲンナジー・ゴロフキン(40=カザフスタン)の対戦がようやく実現するのだ。
当初この試合は、昨年末の実施が予定されていた。
日本ボクシング史に語り継がれるであろうビックマッチとして注目を集めていたが、新型コロナウイルスの影響でやむなく延期に。
期待が高かった試合だけに、ボクシング界には衝撃が走り、ファンからは悲しみの声が溢れた。
それだけに、この対戦の実現がありがたく、待った分だけ楽しみが増した、必見の試合なのである。
訃報
Facebook Honda 本田技研工業(株)さん曰く
【 オールラウンド編 】(アーカイブス)
Such a tuff game tonight against Japan!
プレーバック・リオ 男子団体総合で日本が3大会ぶりの金メダル獲得
1964年東京オリンピックの体操競技
アントン・ヘーシンク 日本柔道に立ち塞がったオランダの巨人
「柔道(講道館柔道)」は、現在世界中で行われているスポーツ競技となっているが、その発展段階では、紆余曲折もあった。国内のスポーツ競技統括団体としての全日本柔道連盟は1949年に設立。柔道が次第に世界に広まっていくにつれ、本家の日本と世界との間には徐々に軋轢が生じていた。事実、1951年に欧州柔道連盟が改組され国際柔道連盟が設立された時点では日本は加盟しておらず、加盟は翌年となった。
1956年に東京で開催された第1回世界選手権は、無差別級のみで行われ日本人選手が制した。1958年の第2回も東京で開催され同様に日本人選手が優勝したが、1961年にパリで開催された第3回大会は、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本代表の3選手を次々に撃破し、外国人選手として初めての優勝を飾る。これに先立つ1959年のIOC総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道を導入することが決定されていたが、ヘーシンクに敗れたこの時から柔道の本家日本の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まった。
東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
もし無差別級でも神永が勝ち、4種目を日本が独占していたならば、国際化の動きは鈍っていたのではないかといわれている。
【 プロレス編】
三冠の一翼は、このベルトが担います。
1976年8月26日、日大講堂でジャンボ鶴田とブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田が勝利を収めて王座を奪取、鶴田用のベルトとしてPWFヘビー級王座に次ぐNo.2のベルトとして全日本に定着
幻の「ジャイアント馬場vsアントニオ猪木」~1979 ”1億円
王座陥落
【馬場転落】ジャイアント馬場vsジン・キニスキー70年12月大阪インター選手権
日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」
【 ボクシング編 】
伝説は、ここから始まった・・・。
2団体王者井上尚が防衛 谷口はミニマム級新王座に
ボクシングのダブル世界タイトルマッチ各12回戦は14日、東京・両国国技館で行われ、世界ボクシング協会(WBA)、国際ボクシング連盟(IBF)バンタム級チャンピオンの井上尚弥(大橋)がIBF5位のアラン・ディパエン(タイ)と対戦し、8回TKO勝ちした。2年ぶりの国内試合でスーパー王座のWBAは6度目、IBFは4度目の防衛となった。
世界ボクシング機構(WBO)ミニマム級1位の谷口将隆(ワタナベ)は王者ウィルフレド・メンデス(プエルトリコ)に11回TKO勝ちし、新王者になった。谷口は2度目の世界挑戦だった。
◇WBO世界ミニマム級タイトルマッチ12回戦 〇谷口将隆 TKO11回1分8秒 ●ウィルフレド・メンデス(2021年12月14日 両国国技館)
WBO世界ミニマム級タイトル戦は同級1位の谷口将隆が王者のウィルフレド・メンデスを11回1分8秒TKOで破り、王座奪取に成功した。
「まだ夢見心地ですね。2年前の自分よりずっと強くなったと、ようやく自信が持てた」。会心のTKO勝ちが信じられないかのように、ベルトを巻いた谷口が興奮気味につぶやいた。
「挑戦者らしく」がテーマ。それを貫いた。判定で敗れた19年2月の初の世界挑戦。気負って力を発揮できなかった反省が原点にあった。いかにして相手の中に入って接近戦に持ち込むか――。インサイドワークという王者の持ち味を消す作戦を徹底的に練った陣営の執念が実った。序盤から決して下がらず前に前にと圧力をかけ、2回に左フックでダウンを奪うと、中盤以降も果敢に前へ出る。11回。左の振り下ろしで相手の動きを止め、コーナーに追い詰めて畳みかけるとレフェリーが試合を止めた。
同じジムには同学年のWBA世界ライトフライ級スーパー王者、京口紘人がいる。アマチュア時代からのライバルに先を越されたが、ようやく同じ「世界」の称号を手にした。青コーナーで励まし続けた盟友は「申し分ない内容。これから2人で引っ張っていこう」と激励。これに谷口も「勝利の女神ならぬ、男の神様」と感謝した。
「僕は(メインイベントの)井上君のおまけ」と控えめに話していたモンスターの“前座”が、存在感を十分に見せつけた。27歳の新王者は「来年は谷口の試合を見にこようと言われるボクサーになりたい」とさらなる成長を約束していた。
◇谷口 将隆(たにぐち・まさたか)1994年(平6)1月19日生まれ、神戸市出身の27歳。中1でボクシングを始め、神戸第一高ではインターハイ8強入り。龍谷大ではボクシング部主将を務め、国体で2度準優勝。アマ戦績は74戦55勝16KO19敗。16年4月プロデビュー。18年11月にWBOアジアパシフィック・ミニマム級王座、20年12月に日本同級王座を獲得。身長1メートル62、リーチ1メートル64の左ボクサーファイター。
【 ボクシング編 】(アーカイブス)
「エディ・最後の挑戦~老トレーナーと19歳の世界チャンピオン~」
日本で6人の世界チャンピオンを育てた名ボクシングトレーナー、エディ・タウンゼント。病魔と闘いながら19歳の若者に夢を託す、老トレーナーの最後の挑戦を追う。
エディ・タウンゼントは、1962年にハワイから来日して以来、四半世紀にわたってチャンピオンを世に送り出すことで、日本の少年たちに夢と勇気を与え続けてきた。彼が最後に育てたのは、19歳で世界チャンピオンとなった井岡弘樹。その初防衛戦に向けて、エディは大病を患いながら車いすで指導、試合の日は担架に乗って会場へ向かった。井岡は激闘の末、最終ラウンドで逆転勝利。最後まで情熱を燃やし続けるエディの姿を描く。
【出演】エディ・タウンゼント,井岡弘樹,藤猛,ガッツ石松,海老原博幸,友利正,柴田国明,田辺清,【語り】千田正穂
Facebook 井岡 弘樹さん曰く
ボクシング レジェンド王者伝説 畑山隆則 編【vs 坂本戦、鮮烈KO 6連発】
大場政夫
1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。
永遠のチャンプ
私が最も敬愛するボクサーです。
1949年10月21日東京都足立区生まれ。
実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しか
その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学
その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と
翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。
以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、
そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の
1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバ
この時、大場は21歳。
プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました
その後、2年半足らずで王座を4度防衛。
そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の
相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チ
大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。
その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのフ
しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優
前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛
ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ち
その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフ
1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継
終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした
小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。
決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピー
猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直
いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。
その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る
この試合の23日後、1973年1月25日。
大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都
現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。
大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネ
また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました
中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度
大場政夫
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛