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JFKとジャッキー

2020-11-20

【20th Century Chronicle 1961年(s36)】

◎ジョン・F・ケネディ アメリカ大統領誕生(JFK)
*1961.1.20/ ジョン・F・ケネディが、第35代アメリカ合衆国大統領に就任し、有名な大統領就任演説を行う。

 ジョン・F・ケネディは、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。ケネディは43歳8ヵ月と、もっとも若くして選挙で選ばれた大統領であり、また初めてのカトリックの大統領でもあった。ケネディは就任宣誓式で、大統領の職務を遂行し合衆国憲法を守ることを宣誓し、そのあと大統領就任演説を行った。
 

 就任演説では、冷戦で東西対立が厳しい時代に自由を守る決意を明らかにした。さらに「人類の共通の敵」である暴政、差別、貧困、疾病そして戦争との戦いにともに参加するように訴えた。就任演説はその多くが「自由」の価値と、自由を守り発展させるために人々がなすべき行動をアメリカ国民および世界の人々に問うものであった。

 就任演説の末尾は、次のような有名な一節で締めくくった。

 My fellow Americans, ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world; ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

 我が友アメリカ人よ、国があなたに何をしてくれるかを問うなかれ。あなたが国のために何ができるかを問いたまえ。世界中の我が友よ、アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのではなく、人類の自由のためにいっしょに何ができるかを問おうではないか。
 

 JFケネディは、提唱する「ニューフロンティア精神」に基づき、7つの項目にわたる「ニューフロンティア政策」を提言し、これを具体化する66にのぼる特別教書をもって、議会に立法措置を勧告した。それは、教育への連邦政府支出拡大、住宅施策の促進、高齢者医療の拡充、都市の再建、そして黒人や少数民族の地位向上や公民権法の制定など、野心的な公約であった。
 

 そして1年目には不況対策、最低賃金引き上げ、平和部隊創設および軍縮協の創設、2年目には通商拡大法を成立させ、また人種差別についての取り組みは高く評価された。しかしこれら斬新な進歩的政策は、議会の保守勢力の前に難航し、ケネディが力を入れた「公民権法」も、彼の在任中は議会を通過しなかった。
 

 しかしそれは、就任後わずか2年10ヵ月でケネディが暗殺されたためでもあり、代わって昇格したジョンソン大統領の時期に、公民権法や老齢健康保険法、住宅都市局の設置などが次々と可決された。また、ソ連に圧倒的な差を見せつけられた宇宙開発で、ケネディは「10年以内にアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」と宣言し、1969年アポロ11号でそれは達成された。
 

 JFケネディは、その3年に満たない在任期間中に、2度の米ソ直接対決の危機に直面している。この時期はソ連の軍事的優位が明らかになり、それを背景にソ連のフルシチョフ首相はきわめて強気であった。一方、ケネディは就任早々に、カストロ政権の転覆を狙いCIAなどが計画を進めた「ピッグス湾事件」の失敗で、その責を負わされていた。
 

 1961年6月にウィーンで、ケネディはフルシチョフを相手に、一対一の首脳会談に臨んだ。議題は東西関係やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関してだったが、両者の対立関係を際立たせただけで、ほとんど成果はなく終わった。
 

 そしてウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月、「ベルリン危機 (1961年)」が勃発する。その前の7月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説で、国防費増額・陸海空三軍の増員など、西ベルリンを守り抜く決意を表明していた。
 

 それに対してフルシチョフは、ウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月13日、いきなり「ベルリンの壁」を建設するという強硬手段に打って出た。それまで自由に東西を往来することができたが、この日から往来が不可能となって、東西ベルリン市民は完全に分断された。
 

 一方ケネディは、8月20日、西ドイツから陸路で東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊1,600人を西ベルリンに送り込んだ。これによりケネディは、西ベルリンを断固としてに防衛する決意を示した。これには、ソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険があったが、無事西ベルリンにたどり着くことで、西ベルリン市民を安心させた。
 

 その翌年の1962年10月、さらに緊迫した一触即発の「キューバ危機」が勃発した。アメリカの喉元ともいえるキューバに、建設中の核ミサイル基地が発見された。10月14日、アメリカ空軍のU-2偵察機が、ソ連が核ミサイルサイロを建設中の写真を撮影したのだった。ケネディは、16日朝に報告を受けると、緊急に国家安全保障会議を招集した。
 

 会議は連日続けられ、いくつかあった対応の選択肢は「空爆」と「海上封鎖」に絞られた。軍関係者は「空爆」を主張したが、ケネディ大統領は「海上封鎖」を決断した。10月22日午後7時、ケネディは国民に向けて演説を行い、キューバにミサイルが持ち込まれた事実とキューバ海上封鎖措置を取ることを発表した。
 

 この演説の2日後に海上封鎖が発効し、翌10月25日、潜水艦に守られてキューバに近づいていたソ連船16隻は、急遽Uターンした。しかし、キューバ国内では、すでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。この間、フルシチョフ首相の書簡が届き、米がキューバに侵攻しない約束のもと、ミサイルを撤去する旨の内容であり、ケネディ大統領もこれに応諾して、キューバ危機は、1962年10月27日、爆発直前に回避された。
 

 ウィーン会談などで、フルシチョフはケネディを扱い易い若造とみていたようだが、キューバ危機では、一歩も引かない毅然とした対応をみせたケネディに、フルシチョフは怯むかたちで撤退した。ケネディとフルシチョフの両首脳は、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより、世界中からの尊敬を集めることとなった。
 

 キューバ危機の経験から、米ソ両国の首脳は核戦争を回避するための道を模索し始め、1963年6月、危機管理のためのホットラインを両国間に設置し、8月には米英ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結するなど、平和共存に一歩を踏み出した。しかしケネディはその年1963年11月に凶弾に斃れ、さらに翌1964年10月にはフルシチョフが失脚、両者の直接外交は長くは続かなかった。
 

(この年の出来事)
*1961.2.1/ 右翼の17歳の少年小森一孝が、中央公論社の嶋中鵬二社長宅を襲い、婦人に重傷、止めようとした家政婦を刺殺する。(嶋中事件/風流夢譚事件)
*1961.3.15/ 有田八郎元外相が、三島由紀夫の小説「宴のあと」がプライバシー侵害として、作者三島と新潮社を告訴する。(1964.9.28原告勝訴)
*1961.6.12/ イギリスのマン島オートレースで、本田技研工業チームが125ccと250ccクラスで優勝。世界に、オートバイのホンダの名をとどろかす。
*1961.7.31/ 京都市電北野線の日本最古の「チンチン電車」が、この日をもって廃止となる。
*1961.10.26/ 文部省が全国一律学力テストを実施、日教組は、教育統制だとしてボイコットなど反対運動を展開する。
*1961.12.12/ 旧軍人らによるクーデター計画が発覚、政府要人らの暗殺を計画したとして13人が逮捕される。(三無事件)

JFK VS ニクソン副大統領

2020-11-20
現職副大統領の勝利のはずでしたが・・・。
若き大統領の前にはだかったのは、ソ連の狸親爺、ニキタでした。

人気投票

2020-11-17
Facebook永井由紀夫さんの投稿

なんと今年で《70歳》

2020-11-12
今日 11/12は 由美かおるさんの誕生日です。
fzcebool宮﨑さとしさんの投稿

映画の時代の幕開き

2020-11-11
Facebook佐々木信雄さんの投稿
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