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◎池田内閣 所得倍増計画

2022-05-13

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-5
◎池田内閣 所得倍増計画
*1960.12.27/ 岸内閣のあとを受けた池田内閣が「所得倍増計画」をスタート。
 新安保条約を成立させた岸信介首相が、安保騒動の責任を取る形で退陣し、その後継として、1960(s35)年7月19日、池田勇人が内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣を発足させた。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで約4年4ヵ月の長期政権となる。
 政治的対立が極度に高まった騒動のあと、岸に代わって内閣を組織した池田隼人首相は、政治色を払拭するため、経済に焦点を絞った「所得倍増計画」を発表した。10年間で国民所得を倍増させるというものであったが、当時は誰もが単なる目先を変えるスローガンに過ぎないと思った。ところが実際には、実質国民総生産は約6年で、国民1人当りの実質国民所得は7年で倍増を達成した。
 日本の経済史においては、1955(s30)年から1970(s45)年頃までを高度成長期あるいは高度経済成長期と呼び、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた。なかでも特に、1960(s35)年に首相に就任した池田勇人の「国民所得倍増計画」は、まさしく高度成長体制の基盤を整備したといえる。
 首相として、目覚ましい高度成長を演出した池田勇人だが、一方で、当時の流行語にまでなった有名な発言や歴史的失言として記憶されるものが多い首相でもあった。第3次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢された池田は、国会の質疑で「貧乏人は麦を食え」と発言したと新聞に書かれてしまう。趣旨は違ったものであったが、発言の上げ足を取られて面白おかしく新聞が取り上げられ、各方面から強い批判を受けた。また、2年後に通産大臣としての国会答弁を、新聞は意図的に曲解して「中小企業主の五人や十人自殺してもやむを得ない」と書いた。
 しかし総理大臣になると、池田は「寛容と忍耐」を政治理念に掲げ、「低姿勢」を前面に打ち出した。そして、つい本音を言ってしまう政治家とのイメージを逆手に取って、「経済のことはこの池田にお任せください」とか「私はウソは申しません」など、庶民が笑いながらも受け入れるような名言を連発した。
 所得倍増計画は予想を上回る勢いで進展していたが、1964年9月、池田は喉頭癌に罹患していることが判明した。すでに癌は相当進行していたが、病名は本人に告知されないまま、一般には「前癌症状」と発表された。高度成長を象徴する'64年東京オリンピックが、大成功で幕を閉じた翌日の10月25日に、池田首相は退陣を表明し、後継を佐藤栄作に委ねた。
 その後の高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが、事実上、その体制を作り上げたのは池田勇人の「所得倍増政策」であった。池田は倍増計画が達成されるのを目前にして、1965(s40)年8月13日に死去。享年65。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する
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