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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。 川上哲治。当時30代。

2022-07-04

Facebook 松崎 督さん曰く


仮の話である。
あなたが1951年=敗戦からまだ6年。講和条約は締結されておらず、米軍占領下の日本のスポーツ選手だったとする。もし、アメリカのチームからトレーニングに誘われ、その練習内容を見たら、どう反応するだろうか?
たぶん僕なら呆気にとられるのと、相手への警戒心と、文化の違いに理解ができなくて、結局何も得ないままに終わるだろう。極端な話、一年間のトレーニングに付き合わされたとしたら、刺激になるかもしれないが。
さて、時の名プロ野球選手だったこの男は、一時のメジャー春季キャンプの招待参加だったにも関わらず、その内容に衝撃を受け、そしてそれを「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。
川上哲治。当時30代。「打撃の神様」として名声を得ていた全盛期のことだ。
当時の日本球界は、選手の個人プレーや根性野球が主流である。選手は野球バカであり、野球ができさえすれば何をやってもよいという考えだった。監督の立場は弱かった。実際にプレーする選手が監督を排斥する運動まで起こしたことがある。川上もまたその一人だったが、考えをあらためていく。
それから10年後。川上は巨人の監督に就任した。「ドジャースの戦法」をベースに、サインプレー、守備のフォーメーションなど細かい戦術を磨く。更には様々な分野の人間を呼んでの講演会を催し、選手に人間教育を図った。ナアナアだったマスコミとの間に一線を引いて、情報の漏洩阻止も行う。時には移動日に大雨の降る中、自らもずぶ濡れになりながら、打撃練習を命じた。
その全ては勝つために自ら率先して「当たり前のことを当たり前にする」ことが根底にあった。
かくしてマスコミからは「非情」「つまらない」「面白くない」と叩かれていく。就任から数年は苦労したが、1965年からのV9は、川上のその方法が間違っていなかったことを実証した。「球際の強さ」という決してゲームを諦めない展開を川上は追及し、その執念が成せるものだった。「アメリカ野球に追い付き追い越せ」を訓示としたチーム作り。
その戦術は、巨人のメンバーにも影響を与えた。西武の監督に就任した広岡達郎は、巨人の戦術を極めての打倒巨人に執念を見せた。森祇晶も広岡が整備した戦力を生かし「負けない野球」を標榜し、チームを6度の日本一に導く。そこからまた当時のメンバーが監督になる。
築かれた強さの伝統というのは、その土台がきちんと整えば、先輩から後輩へとバトンが渡され、時に見直され、再確認されて結果も伴ってゆくのだ。一時的な物ならとっくに廃れただろう。広岡や森も「つまらない」と言われながら結果を残したのだから流石である。
もしも、メジャーのキャンプを見た川上が「こんなのは日本に合わない。自分もキャリアはあるんだからやる必要はない」と考えていたら・・・・。日本の球界は歴史が変わっていただろう。
感覚を研ぎ澄ませ、安易な方向に走らず、ナアナアにならず、自分のいる世界だけが全てにならぬようにアンテナを張る。自らを磨く。
ぬるま湯漬けの世界でなら「今で十分やれるのに、何を考えてるんだ?」「あれは何をクソ真面目につまらん面倒なことをしてるのだ」と言われるだろう。
だが「今まで人がやってないから一切やってはならない」という道理はあるまい。世の創意工夫やチャレンジは「誰もやってないからやる」ことから始まるのでないか?
やらなかった後悔より、やって後悔した方が人生の幅が広がるように、私は思うのだが・・・。
「どうせやったって無駄だ」「やめとけ」
僕もこんな言葉を他人にかけたし、かけられたこともある。慎重な行動を求め、心配をしていただいている気持ちが根底にあるが、時にそれは情熱や意欲を奪うことにもなる。
それが先行すれば世界の沈滞を招くことになるだろう。
私はいつ終わるやわからぬ人生なら、不必要に他人の顔や空気を伺わず、積極果敢にチャレンジしてみたい。
難しいことも多いのは承知の上で。

東京都慰霊堂と東京都復興記念館の展示物。

2022-07-04
Facebook 春 九千さん曰く
もうすぐ3月10日で、東京の浅草出身の者としては1945年3月10日に下町を焼き払われた東京大空襲の日です。
私はこれについては日本側に立って書かれた体験記やアメリカ側の記録など色々と本を読んでいますし、親戚には火の中を逃げ延びた者もいます。
さて、現在もウクライナで一般民衆までがロシアの空襲にさらされていますから、ロシアは早くプーチンの言う「軍事作戦」を止めて欲しいです

平氏・源氏の興隆

2022-07-04
Facebook 佐々木 信雄さん曰く

【12th Century Chronicle 1101-1120年】-1
◎平氏・源氏の興隆
*1101.7.7/ 源義家の子 源義親が九州を荒らしたため、追討官符が下る。
*1104.10.26/ 延暦寺僧徒と座主慶朝との争いで、源義家・義綱に延暦寺悪僧を逮捕させる。
*1108.1.29/ 源義親が配流先で出雲の目代を襲ったため、因幡守平正盛が追討を命じられ、討ち取った正盛は義親の首を下げて帰京する。
*1109.2.17/ 検非違使源義忠(義家の子)を殺害した罪で、叔父義綱を捕らえる。
*1110.3.27/ 出羽守源光国が、摂政藤原忠実の寒河江荘を侵す。
*1113.4.29/ 清水寺別当の任命をめぐって、強訴合戦(永久の強訴)を繰り返す延暦寺と興福寺の闘争を制止するため、平忠盛・源重時を宇治(対興福寺)に、源光国・平盛重を西坂本(対延暦寺)に派遣して、僧徒の入京を阻止する。
*1119.12.27/ 平正盛が、九州地方の賊 平真澄を討ち、その首を携え入京する。
<清和源氏>
 源氏には天皇を祖とする源氏二十一流があり、なかでも清和天皇からの流れをくむ氏族が「清和源氏」と呼ばれ、のちに歴史の舞台に登場する源氏の主流となった。清和天皇の曽孫にあたる「源満仲」が摂津国多田の地に源氏武士団を形成し、その子「頼光」・「頼親」・「頼信」がそれぞれ引き継いだ地名を冠して、「摂津源氏」・「大和源氏」・「河内源氏」と分派された。
 「河内源氏」の祖とされる「源頼信」は、嫡男「頼義」とともに、長元4(1031)年、東国で「平忠常の乱」を平定し、その後の河内源氏の東国での地盤を形成する。この乱の以後、坂東武士が河内源氏と主従関係を結ぶようになり、河内源氏が東国を支配下におき、武家源氏の主流となっていった。
 永承6(1051)年、陸奥での安倍氏の反乱(前三年の役)で、前任に代わって陸奥守となった「源頼義」は、嫡男「義家」とともに、途中苦戦するも、最終的には清原氏の支援を得て、陸奥を平定する。その功績により、頼義は正四位下伊予守、嫡男義家も従五位下出羽守に任じられ、中央での評価も高めた。
  永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」は、清原氏の内紛に積極的に介入する(後三年の役)。義家は、清原家の養子である「清衡」を支援し、後三年の役を終結させるが、朝廷はこれを私戦とし、恩賞はなく、かつ陸奥守を罷免される。これは義家が陸奥守として貢納すべきものを、私戦に費やして、陸奥守としての職務を怠ったと見なされたためであった。
 動員した坂東武士への恩賞も義家の私財で賄ったが、これは結果的には義家が強い主従関係で関東に地盤を築く因となった。しかし以後10年間、義家は中央で地位を得る機会はなかった。やっと白河法皇から許されて、院昇殿を許される官位となった。
 その後も、弟義綱の方が中央で台頭して競合したり、次男の対馬守源義親が、鎮西において問題を起こしたりと、河内源氏棟梁として頭を悩ますことが頻発する。嘉承元(1106)年には、別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟源義光と争いを起こすなか、源氏棟梁の義家は68歳で没する。
 その翌年には、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国で再び騒乱を起こす。義親追討に源氏に適任が見当たらず、白河法皇は、因幡国の国守で院近臣でもあった「平正盛」に義親の追討を命じる。正盛は義親を討ち、源氏より平氏が院の信任を得るようになっていった。
 さらに天仁2(1109)年、河内源氏の棟梁を継いだ義家の息子義忠が暗殺される事件が発生、犯人は義綱と子の源義明とされ、義親の子「源為義」が義綱一族を追討し、家督は為義が継いだ。義光・義国や義忠の遺児河内経国、為義の子源義朝などは、関東へ下り勢力を蓄える。
 以後、「保元・平治の乱」を通じて、源氏・平氏一族が、それぞれ敵味方に分かれ、入り乱れて争った結果、平治の乱で「源義朝」が「平清盛」に敗れ、平氏の天下が訪れる。そしてやがて、義朝の遺子「源頼朝」が、関東に根を張った源氏の一族郎党に支えられ、平氏を追討して鎌倉幕府を開くことになる。
(この時期の出来事)
*1101.4.7/ 興福寺僧徒が金峯山寺僧徒と争い、堀河天皇と右大臣藤原忠実が制止する。
*1102.8.5/ 興福寺僧徒が蜂起したのに対し、白河法皇は宇治橋を破壊して入京を阻ませる。
*1102.9.3/ 東大寺で、東大寺と興福寺の僧徒が争う。
*1103.3.3/ 鬼神横行の妖言により、京中の人々が門戸を閉ざして閉じこもる。
*1104.3.-/ 延暦寺と園城寺(三井寺)の僧徒の争いが激化する。
*1105.2.15/ 藤原清衡が、平泉に最初院(中尊寺)を建立する。
*1106.6.-/ 田楽が流行し、人々が路上で踊りに熱中する。
*1111.-.-/ この頃「今昔物語集」が成立する。
*1119.3.25/ 白河法皇が、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園を停止させる。
*1120.11.12/ 関白藤原忠実が娘を鳥羽天皇の妃にすることを拒み、白河法皇から内覧の職を停止される。

25年で1/10になました。

2022-07-04

Facebook 時事通信社さん曰く


香港の中国返還から25年。この間に中国は急速な経済成長を遂げ、米国に次ぐ世界2位の経済大国に浮上しました。1997年に中国の2割近かった香港の経済規模は、2021年には約2%へ縮小。香港の存在感が低下しています。

常識に欠ける防衛費倍増と反撃能力の議論 | | 山崎拓

2022-07-04
山崎拓氏=須藤孝撮影
2022年7月4日

 防衛費を国内総生産(GDP)比2%にまで引き上げる議論がある。しかし、「防衛費を2倍にすれば、抑止力も2倍になる」というような、そんな簡単なものではない。

米国は喜ぶが

 米国は日本に、北大西洋条約機構(NATO)並みに防衛費を引き上げるよう求めている。その要求に応じる国際政治の局面はある。米国を喜ばせる点ではたしかに意味がある。

 しかし現実問題として防衛費を増やしたらどうなるか。日本の防衛費は4割強が人件費だ。その7割を占める陸上兵力を増強して、人件費を増やすことは実際的ではない。つまり防衛費を増やすことは装備費を増やす問題になる。2022年度予算では防衛関係費は5兆4000億円だ。2倍にするならば10兆8000億円だ。

 装備をそこまで増やす現実的な方法はない。米国の軍事産業を喜ばせるかもしれないが、装備をそれだけ買うことは実際上、不可能だ。みな非常に単純に考えているが、防衛力というのは簡単に強化できるものではない。核開発でもするというなら別だが、非核三原則は国是だ。変えるべきではない。

結局は国民負担

 22年度の文教予算は約5兆4000億円、公共事業費は約6兆1000億円だ。それらにほぼ匹敵する額の防衛費を増やすというならば、どうやって増やすか。その財源はどこにあるのか。

 大型予算を投入してコロナ対策はやったと言う人がいるかもしれない。しかしコロナ対策は非常時の支出だ。防衛費は一度増やせば毎年度ずっと負担が続く。財政規律の問題からいっても容易にできることではない。

 大政治家と言われる人が簡単に倍増すると言うが、常識に欠けている。言うはやすく行うは難い問題だ。

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