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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

幕引きもむ必要でした。

2020-11-01
戦中最後の宰相です。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

勝ったドー

2020-11-01
老兵は死なず、帰ってきました。

従軍記 火野葦平

2020-10-30
Facebook佐々木信雄さん投稿

永井隆

2020-10-24
爆死した妻のために半年間喪に服した (昭和21年(1946) 撮影)
長崎市永井隆記念館 永井隆ストーリーより
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。
見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く動けない体となってしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

宗教弾圧

2020-10-22
大本教の場合
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎第二次大本教弾圧事件
*1935.12.8/ 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪・治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)
 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921(大10)年に起こった第一次大本事件と、1935(昭10)年に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。
 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。
 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。
 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。
 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。
 1921(大10)年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇の崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。
 1935(昭10)年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派や右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。
 1935(昭10)年12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。
 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。
 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。
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