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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

終わりなき沖縄戦 ~ 牛島司令官、最後の命令

2022-06-23

6月23日は、沖縄の慰霊の日。この日は、多くの人が「沖縄戦終結した日」と考えているのではないでしょうか。しかし、正確ではありません。

牛島満軍司令官は自決の前に最後の命令を出しました。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」…つまり、最後の一兵まで戦えと命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。残った日本兵は、その後も投降を許されず、遊撃戦を続行しました。その終わりなき沖縄戦によって、一体何がもたらされたのでしょうか。

 渡嘉敷島久米島では、日本兵による住民虐殺事件が何度も起きました。それは、牛島満軍司令官が自決した6月22日以降にも、玉音放送のあった8月15日以降にも起きました。「防諜(スパイ対策)に厳に注意すべし」と生前の牛島満司令官が訓示した通り、スパイ対策は日本軍の最重要課題の一つだったのです。米軍と接触した住民は、スパイ扱いして虐殺するという徹底ぶりでした。久米島では、乳飲み子も含め、家族を皆殺しにするという残虐な事件にもなっています。

沖縄の日本軍が正式に降伏調印をしたのは、ミズーリで調印が行われた9月2日よりも遅く、9月7日のことでした。それまで沖縄の住民は、「殺されるかもしれない」という恐怖から解放されなかったのです。

自決の数日前に発した「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との牛島司令官の最後の軍令

“立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった

〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 運命に手繰り寄せられるように沖縄戦と向き合ってきた人がいる。東京都在住の小学校教諭、牛島貞満さん(62)だ。日本陸軍第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課している。

「こわいをしって、へいわがわかった」 7歳が読んだ平和の詩全文

2022-06-23
沖縄戦の犠牲者らを悼む23日の追悼式で、沖縄市立山内小学校2年の徳元穂菜(ほのな)さん(7)が読み上げる「平和の詩」の全文は次の通り
こわいをしって、へいわがわかった
びじゅつかんへお出かけ おじいちゃんや おばあちゃんも いっしょに 
みんなでお出かけ うれしいな 
こわくてかなしい絵だった 
たくさんの人がしんでいた 
小さな赤ちゃんや、おかあさん 風ぐるまや チョウチョの絵もあったけど 
とてもかなしい絵だった
 おかあさんが、 七十七年前のおきなわの絵だと言った 
ほんとうにあったことなのだ 
たくさんの人たちがしんでいて ガイコツもあった 
わたしとおなじ年の子どもが かなしそうに見ている 
こわいよ かなしいよ かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに? 
へいわ? へいわってなに? 
きゅうにこわくなって おかあさんにくっついた 
あたたかくてほっとした 
これがへいわなのかな 
おねえちゃんとけんかした 
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた 
そして仲なおり これがへいわなのかな 
せんそうがこわいから へいわをつかみたい 
ずっとポケットにいれてもっておく 
ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように 
こわいをしって、へいわがわかった


「数日間、韓国に行ってみませんか?」

2022-06-22
マリリン・モンローと野球界のレジェンド、ジョー・ディマジオは1954年1月にサンフランシスコで結婚しました。その直後、二人は日本の東京で新婚旅行に出発し、ディマジオは多くの野球クリニックに出席する予定だった。


「寒さは厳しかったが,彼女は急いで立ち去ることはなかった」と彼は締めくくった。「マリリンは素晴らしいエンターテイナーでした。彼女は何千人ものGIに、彼女が本当に気にかけているように感じさせました。 

還ってきました。

2022-06-21

Facebook 雨森 慶為さん曰く


鐘に穿たれた穴が物語る。
真如堂の巨大な梵鐘も昭和17年の金属供出にあっていた。しかし製錬所に送られた鐘は戦後問い合わせると真如堂へ帰ってきた。
鐘撞き堂に登るとしっかり確認できます。
鐘に穿たれた穴
    戦争が終わった昭和21年、真如堂は京都府仏教会に供出した鐘の調査依頼をしたところ、直島精錬所に収納されたことがわかりました。
 そこで、直島精錬所に鐘が現存しているかどうかの調査を依頼したところ、「昭和18年2月4日、弊所受入未処理のまま残存……但し、含有品位決定試料採取のため鐘の中部にボーリング(径15.6ミリ)を施した以外は、破損箇所なし…」という回答がありました。
 地方長官の承認を得て、引き渡しの時の受領書などを添付して申請すれば引き渡し可能とのことで早速手続きを進め、昭和21年9月30日、鐘は国鉄梅小路駅に到着。10月1日、鐘楼に吊され、15日に復還法要が勤められました。

皇道派・統制派、そして二・二六事件

2022-06-19

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【歴史コラム】17.皇道派・統制派、そして二・二六事件
 「皇道派」は、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、政財界の堕落を批判する陸軍士官学校(陸士)卒の若手将校たちが中心であったが、それに対して「統制派」は陸軍大学(陸大)出身者の上級エリートが主体で、陸軍の中堅幹部として、軍内の規律統制を尊重する穏健派が主体となった。
 皇道派は、「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)をリーダーと仰ぎ、荒木が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、真崎は参謀次長に就任し、実質上、参謀本部を取り仕切るようになった。荒木は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校らを東京の第1師団に集め、この頃から荒木・真崎の取り巻き連が皇道派と呼ばれるようになった。
 以前、荒木は教育総監部本部長、真崎は陸軍士官学校校長をつとめるなど、若手士官の教育に携わり、青年将校を中心に圧倒的な信望を集めていた。宇垣一成陸相のもとでの宇垣軍縮で、将校達の待遇が悪化し昇進も遅れると、青年将校たちの間で不平不満が激化、さらに昭和恐慌で農村が疲弊して、農村出身の青年将校たちは、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥などがその因を作っていると考えた。
 荒木や真崎は、日露戦争時期を理想とし、天皇親政のもとで国体を明徴にし、日本の国力強化、軍の拡大が必須で、それを拒んでいる「君側の奸」を討つべしと唱え、青年将校らの崇敬を一身に集めた。しかし荒木や真崎には、明確な国体像や国政のビジョンはなく、青年将校らは思想家「北一輝」の国家社会主義的な政体思想などに指導された。
 それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走る皇道派を、危険視する空気が強く、犬養内閣時に荒木貞夫陸軍大臣に断行された露骨な皇道派優遇人事に、陸軍中堅層が反発し結集した結果、それが「統制派」とされるようになった。統制派には、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍務局長の「永田鉄山」も、軍内での派閥行動には否定的な考えをもっていた。
 1934(s9)年11月には、皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画「陸軍士官学校事件」が発覚する。その背景には皇道派と統制派の抗争があったとされるが、解明されず曖昧に処理された。さらに翌1935(s10)年8月、皇道派青年将校に共感する相沢三郎中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を、陸軍省において斬殺するという「相沢事件(永田斬殺事件)」を引き起こす。
 これらの事件では、荒木・真崎の関与は示されなかったが、荒木は1934年1月病気で陸相を辞任した。後任候補として真崎を望んだが容れられず、真崎は教育総監に回ったが、1935年教育総監をも罷免される。荒木の辞職、真崎の更迭によって、皇道派は中央での基盤を失い、焦った皇道派青年将校らが二・二六事件の暴発を引き起こすことになる。
 二・二六事件が鎮圧されたあと、荒木・真崎は直接の関与なしとなったが予備役になり、その他の皇道派の将校も予備役に追いやられ、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。統制派では、相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が中心に立ち、陸軍内での対立は統制派の勝利となると、陸軍内での勢力を急速に拡大し政治色を増してゆき、最終的に、東条英機の下で、全体主義色の強い東条内閣を成立させるに至る。
 二・二六事件で岡田啓介首相が辞任した後、短命内閣が続くが、1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。近衛文麿内閣は、組閣直後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争(支那事変)が勃発、不拡大方針を発表するが、軍部のコントロールに苦慮する。東条英機は、このとき陸軍次官として軍部の意向を代表し、1940年7月の第2次近衛内閣で陸軍大臣に就任する。
 優柔不断な近衛首相が右往左往するなか、対米戦争必至となると、近衛は内閣を投げ出し、1941年10月東条英機が首相拝命、ハルノートを受けて日米開戦となる。ところが実はこれらの背景に、「コミンテルン」(第三インター・国際共産主義運動の指導組織だが事実上スターリン支配下のソ連指揮下にあった)の工作員による大きな影響があったという説がある。
 近衛文麿首相の周辺や軍部の統制派の周りには、コミンテルンの工作員が多数配置されていて、日米開戦を促進させたとされ、また、アメリカのF・ルーズベルト政権の内部にも、日本との開戦を工作したスパイが存在したとされる。しかしこれらには明確な証拠がなく、日本の歴史学者の多くからは陰謀論扱いされてきており、主として右翼系研究者などから指摘されることが多い。
 しかし事実上、スターリン・ソ連の都合の良いように展開したという状況証拠だけでなく、日米開戦の直前には「ゾルゲ事件」が発覚し、近衛内閣嘱託の尾崎秀実も工作員だったことが判明し、コミンテルン工作の一端を覗かせた。また、「ベノナ文書」として、米国に潜入したソ連スパイがモスクワに配信した多数の暗号電文が、ソ連崩壊後に公開され、その中にも、米側に日本との開戦を促す動きが残されている。
 ヒトラーのドイツとの開戦を必至とみていたスターリンは、極東で日本と対立する2方面作戦は避けたい。そのため、公的には日ソ不可侵条約を結び、裏では日本の中枢に工作員を送り込み、日本軍の大陸勢力を南進させるように仕向けた。南進によって英・仏・蘭および米の権益と対立し、最終的に米と交戦するように工作させたというわけである。
【統制派】軍務局長永田鉄山少将
【皇道派】「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)
【統制派】相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が
1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。
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