本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

血のメーデー事件

2020-10-16
Facebook佐々木信雄さんの投稿
(血のメーデー事件)
○5.1 [東京] 第23回メーデーが開催され、デモ隊と警官隊が乱闘になる。
 日本が主権を回復した直後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーが全国各地で開催された。「国際労働者の日」とされているメーデーは、戦時中禁止されていたが、占領後のGHQの民主化政策の下で再開され、年々政治色を帯びてきていた。この日の中央メーデーでは、日米安保条約や警察予備隊への反対とともに、「人民広場(皇居前広場)」の開放を決議していた。
 デモ隊の解散予定は日比谷公園だったが、一部はその中の全学連と左翼系青年団体員らに先導され、およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、警備中の警察官による警戒線を突破、使用許可を受けていない皇居前広場へとなだれ込んだ。暴徒と化したデモ隊は、二重橋前付近の警察官に投石したり、所持していた棍棒、竹槍でなどで攻撃した。
 デモ隊はさらに数を増し、警察も予備隊が動員されるなど騒動は膨れ上がり、暴徒化したデモ隊の鎮圧のため催涙弾を使用するも効果なく、劣勢に追い込まれた警察隊は拳銃を発砲し、双方激しい衝突の下で流血の惨事となった。デモ隊側は死者2名(1名は後日に死亡)重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名、米軍の負傷者11名に及んだ。
 メーデー事件に続いて、吹田事件、大須事件が起こされ、これらは三大騒擾事件とされる。前後して、白鳥事件、曙事件、中核自衛隊、山村工作隊事件などの不穏な事件が起こされているが、ほとんどに朝鮮戦争を革命の好機ととらえた日本共産党が関わっているとされた。日本共産党はこの時期、「武装闘争(暴力革命)」を基本方針としており、騒乱を引き起こしそれに乗じて革命を起こすという、コミンフォルム(共産党国際情報局)の方針に沿っていた。
 このような日本共産党の武装闘争路線は国民の批判を浴び、この年に行われた総選挙では共産党は全議席を失った。のちの1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)において、武装闘争路線を批判し方針転換したとされる。しかし全面的に「ボルシェビキ革命(暴力革命)」を否定したものではないともされる。
 なお、この血のメーデー事件をきっかけとして、この年、従来の「騒擾罪(騒乱罪)」より幅広く適用される「破壊活動防止法(破防法)」が制定されることにもなった。
*この年
モーターバイク時代始まる(本田技研開発の「カブ」)/風船ガム大人気/茶羽織が大流行
【事物】マジックインキ/電動おもちゃ/ボウリング場
【流行語】青線/火炎ビン/ヤンキーゴーホーム
【歌】リンゴ追分(美空ひばり)/芸者ワルツ(神楽坂はん子)/テネシーワルツ(江利チエミ)
【映画】生きる(黒澤明)/西鶴一代女(溝口健二)/風と共に去りぬ(米)
【本】文学全集盛ん/野間宏「真空地帯」/壺井栄「二十四の瞳」/アンネ・フランク「光ほのかに アンネの日記」

間違っていることは,糺さねば・・・。

2020-10-15
中野正剛です。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1929年(s4)】
◎田中義一内閣総辞職
*1929.1.25 衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中義一首相に真相の解明を迫る。
*1929.4.16 共産党員が全国で大量検挙される。市川正一、鍋山貞親らの幹部も6月までに検挙され、党組織は壊滅的打撃を受ける。(4・16事件)
*1929.7.1 政府が張作霖爆殺事件の責任者の処分を発表。陸軍の悦力で河本大作大佐は停職処分にととまる。
*1929.7.2 田中義一内閣が総辞職する。民政党の浜口雄幸が組閣。第2次幣原外交、井上財政を展開する。
 金融恐慌で倒れた若槻内閣の後を受けた政友会田中義一内閣は、3度にわたる山東出兵を行ったが軍部が望んだような成果は上がらず、英米との軍事衝突を危惧した田中が関東軍の投入をも見送ったことで、中途半端な対応に軍部の不満は高まっていた。そんな中の1928(昭3)年6月、関東軍は、若手将校らによって奉天郊外で「張作霖爆殺事件」を引き起こす。
 田中政府は「満州某重大事件」として隠蔽するとともに、事件の真相究明を躊躇したため、1929(昭4)年1月、衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中首相にきびしく真相の解明を迫った。
 田中政府は、関東軍参謀河本大作大佐らが爆破事件を主導したとの事実を知ったが、田中は軍に遠慮し首謀者を軽微な処分で済ませることになった。その曖昧な態度は昭和天皇を激怒させ、天皇の信頼を失った田中内閣は、1929(昭4)年7月2日総辞職に追い込まれた。
 このような政情不安定な状況下で、民間の右翼結社の活動は活発化し、他方で官憲による共産主義者弾圧も強化されてゆく。1929(昭4)年3月5日、治安維持法改正に反対する労農党代議士山本宣治が、右翼団体「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。
 4月16日には、全国の共産党員の一斉検挙が行われた。一連の検挙は「4・16事件」と呼ばれる。さらに検挙は続き、1929年合計では5000人もの共産党員が治安維持法違反で逮捕された。前年に起きた「3・15事件」での逮捕を免れて、党の再建を企んでいた市川正一、鍋山貞親らの幹部も逮捕され、非合法下の共産党はほぼ壊滅させられた。(4・16事件)
 このような流れはさらに進み、ますます政党内閣や議会政治は弱体化が進み、軍国主義へと突き進むことになる。
(この年の出来事)
*1929.2.23/ 約3年間にわたって、強盗に入っては説教をするという「説教強盗」が逮捕される。
*1929.5.-/ 小林多喜二「蟹工船」が「戦旗」5・6月号に発表されるも、発禁となる。
*1929.6.3/ 日本政府が、中国「国民政府」を正式に承認する。
*1929.6.-/ 秋田県の元教師成田忠久が、教育の地方分権などを提唱し「北方(きたかた)教育社」を創設。翌年には雑誌「北方教育」を創刊し、「生活綴方運動」を始める。
*1929.8.19/ 世界一周飛行中のドイツのツェッペリン伯号が、茨城県霞ヶ浦の飛行場に着陸する。
*1929.8.-/ 雑誌「改造」の懸賞文芸評論で宮本顕治「敗北の文学」が当選、2等に小林秀雄の「様々なる意匠」。「改造」8月号に「『敗北』の文学」、9月号に「様々なる意匠」が掲載される。
TOPへ戻る