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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

アメリカ陸軍第442連隊戦闘団(日系二世部隊)

2022-01-09
Facebook 矢ケ崎 浩一さん曰く
敵性市民としての排斥や差別を乗り越え、おのれの勇気と血をもって祖国への忠誠を示し、「決して退かぬ」勇猛な戦士として合衆国陸軍最大の武勲(勲章)を挙げた彼等は、自らの勇気ある行動によって「自由と平等」を勝ち取ったといえるでしょう。そのような彼らはいかなる背景の元、どのような経緯をたどってかかる栄光を勝ち取ったのでしょうか。

アメリカ陸軍第442連隊戦闘団(日系二世部隊)です。今年初めの投稿は皆さんよくご存じのネタから行きます。
 1941年12月、突如帝国海軍によって敢行された真珠湾への奇襲攻撃は、当時米国内に29万人ともいわれる日系人の生活を一変させてしまいました。この攻撃により、米国内の日系一世(移民)は敵国人とされ、米国籍をすでに取得している二世も疑惑の目を向けられます。米国内の日系二世の軍属は武装解除の上拘束され、財産の凍結や日本人会役員の逮捕等、日系人への圧力は激化し、ついには米本土西海岸地域からの強制立ち退きなど政府による大規模な排斥にまで発展しました。(一部ですが、実際に日系人が諜報活動を行っていた例もあったことがこの排斥行動を後押ししていた、という事情もありました)
 かかる状況下、一隻の貨客船がハワイを離れ米本土に向かいます。乗船していたのは疎開する米軍人の家族と日系兵士約1,400人。
 実はこの時点で米本土では日系人の強制収容が開始されており、日系人の多いハワイにおいても検討が開始されていました。しかし、ハワイの人口の約40%が日系人という環境と、ハワイの日系人は本土から離れているせいかアメリカへの帰属意識が非常に強く、強制収容の強行は現地の強い反発を招くというハワイ行政部門の意見からハワイの日系人は一部を除き強制収用を免除されていました。しかしながら、ハワイにおける日系軍属の叛乱リスクは否定できない、という考え方から日系二世の将兵は「ハワイ緊急大隊」として再編成され、米本土での駐留を命じられたのです。(体のいい監視とも取れます)
 家族と米国人としての名誉を守るため米本土へ向かう兵士たちに対し、ハワイに残る家族の中には、「家名を傷つけるくらいなら米軍人として死んで戻りなさい。」と涙ながらに送り出す母親もいたそうです。一方、移送される日系二世の将兵たちは、詳しい情報を与えられておらず、米本土に到着するまで「実は強制収容所行きなのではないか。」と疑心暗鬼だったようです。
 そして船から窓を封鎖した列車に乗せられた将兵たちは、4日間の長旅の末、ウィスコンシン州の訓練場、キャンプマッコイに到着、ここで彼らは自分たちが第100歩兵大隊所属であることを知らされます。しかしながら第100歩兵大隊は上級部隊のない独立大隊であり、いわば米陸軍のどこからも引き取ってもらえない孤立した部隊という位置づけでした。
 早く戦場で名誉を挽回したい日系二世の将兵たちは、戦場に立てるかどうかも分からない自らの状態に一度は落胆したものの、訓練でその意思を示すしかないと奮起します。
 また、彼らを率いる上官も優秀でした。大隊長を務めたF・ターナー中佐は、彼らのおかれた立場に理解を示し、若い兵士たちからは「親父」と呼ばれて慕われる人格者であり、厳しい訓練を課しながらも、日系二世兵士達に対し「君らの双肩に家族の将来がかかっているのを忘れるな!」と叱咤し、未だ実戦参加の見通しの立たない部隊のモチベーションをよく保ちました。
 また、日系人の軍人に対する周辺住民や白人将校までもが、当初日系二世兵士に対し不信の目を向け、町でのいざこざや住民からの苦情が続く中でも、ターナー大隊長は根気強く将兵たちの忠誠心の高さをそれらの人々に説いて回り理解を求めます。日系二世の将兵たち自身も子供の時から日本式のしつけと教育を受けており、年長者や女性への紳士的対応や礼儀正しさなどを目にする機会が増えるにつれ、周辺住民の反発も消えていき、最終的には地域のダンスパーティなどの行事にも招待され、また一方でハワイ島民としての快活さも持ち合わせていたことから周辺住民との信頼関係回復に成功しました。
 そしてターナー大隊長の思いに、将兵たちも実績で答えます。
 真冬の訓練場をTシャツ一枚で駆け回り、基礎訓練から実戦訓練まで他部隊を凌ぐ成績を次々たたき出す第100歩兵大隊の闘志と練度は、視察に訪れた米陸軍将校団を毎回驚かせました。一例をあげると重機関銃の展開から射撃開始までのタイムに関し、米陸軍平均が16秒に対し彼らは5秒でやってのけています。
 上記のような優秀な訓練成績を残した彼らに1943年ミシシッピーのキャンプ・シェルビーへの移動が命令されます。
 実戦参加を切望していた将兵たちは一様に落胆を隠せませんでしたが、この移動の背景には、今まで継子扱いだった日系二世兵士を全面的にアピールした志願部隊の設立と実戦への投入が米陸軍内で既に決定していた、という状況がありました。

インド太平洋に安倍晋三が残した「遺産」

2022-01-07
ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)
安倍が提唱した枠組みが情勢改善のカギに KENT NISHIMURA/GETTY IMAGES

<辞任から1年余り。結局、安倍は中国に関しては究極の現実論者だった。バイデンもCPTPPがあることを感謝するだろう>

在職日数が歴代最長を記録した安倍晋三首相が持病を理由に辞任して1年余り。後任の菅義偉も既に退任した。

しかし、安倍が旗振り役を務めた新体制──包括的かつ先進的TPP協定(CPTPP)と日米豪印戦略対話(クアッド)──は今後長期にわたりアジアの地政学的状況を左右しそうだ。

皆さま、あけましておめでとうございます!

2022-01-05
Facebook 在日米軍司令部さん曰く
2022年が、皆さまにとって幸多い一年となりますように。 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

山本五十六の言葉

2022-01-05
Facebook 中野 博美さん曰く
時々思い出している菊池晴彦先生に
教えてもらった山本五十六の言葉。
苦しいこともあるであろう
言いたいこともあるであろう
不満なこともあるであろう
腹の立つこともあるであろう
泣きたいこともあるであろう
これらをぐっとこらえてゆくのが
男の修行である

「西太后」

2022-01-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
「西太后」は、自分の息子及び甥の同治・光緒両帝を、次々と幼帝として即位させ、自身が宮廷内政治の実権を握り続けた。しかし、李鴻章らを重用して進めた「洋務運動」は、日清戦争の敗北で頓挫し、西太后自身の威信も失墜した。
 そんな中で、成人して親政を始めた「光緒帝」は、「康有為」らに主導させて「戊戌の変法」を遂行するが、急激な上からの改革は民衆の支持も得られず、西太后派による宮中クーデターが遂行されると、西太后は光緒帝を幽閉し、政権を再度奪取することに成功した(戊戌の政変)。
 西太后のめざすところは、旧来の清王朝の威信を回復することだけにあった。政権を取り戻した後、西欧の政体をも取り入れようとした光緒帝を廃立しようと企んだが、諸外国の反対などにより実現せず、西太后の意のままにならない列強国の圧力には、憤懣を蓄積させていた。
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