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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「数日間、韓国に行ってみませんか?」

2022-06-22
マリリン・モンローと野球界のレジェンド、ジョー・ディマジオは1954年1月にサンフランシスコで結婚しました。その直後、二人は日本の東京で新婚旅行に出発し、ディマジオは多くの野球クリニックに出席する予定だった。


「寒さは厳しかったが,彼女は急いで立ち去ることはなかった」と彼は締めくくった。「マリリンは素晴らしいエンターテイナーでした。彼女は何千人ものGIに、彼女が本当に気にかけているように感じさせました。 

還ってきました。

2022-06-21

Facebook 雨森 慶為さん曰く


鐘に穿たれた穴が物語る。
真如堂の巨大な梵鐘も昭和17年の金属供出にあっていた。しかし製錬所に送られた鐘は戦後問い合わせると真如堂へ帰ってきた。
鐘撞き堂に登るとしっかり確認できます。
鐘に穿たれた穴
    戦争が終わった昭和21年、真如堂は京都府仏教会に供出した鐘の調査依頼をしたところ、直島精錬所に収納されたことがわかりました。
 そこで、直島精錬所に鐘が現存しているかどうかの調査を依頼したところ、「昭和18年2月4日、弊所受入未処理のまま残存……但し、含有品位決定試料採取のため鐘の中部にボーリング(径15.6ミリ)を施した以外は、破損箇所なし…」という回答がありました。
 地方長官の承認を得て、引き渡しの時の受領書などを添付して申請すれば引き渡し可能とのことで早速手続きを進め、昭和21年9月30日、鐘は国鉄梅小路駅に到着。10月1日、鐘楼に吊され、15日に復還法要が勤められました。

皇道派・統制派、そして二・二六事件

2022-06-19

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【歴史コラム】17.皇道派・統制派、そして二・二六事件
 「皇道派」は、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、政財界の堕落を批判する陸軍士官学校(陸士)卒の若手将校たちが中心であったが、それに対して「統制派」は陸軍大学(陸大)出身者の上級エリートが主体で、陸軍の中堅幹部として、軍内の規律統制を尊重する穏健派が主体となった。
 皇道派は、「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)をリーダーと仰ぎ、荒木が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、真崎は参謀次長に就任し、実質上、参謀本部を取り仕切るようになった。荒木は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校らを東京の第1師団に集め、この頃から荒木・真崎の取り巻き連が皇道派と呼ばれるようになった。
 以前、荒木は教育総監部本部長、真崎は陸軍士官学校校長をつとめるなど、若手士官の教育に携わり、青年将校を中心に圧倒的な信望を集めていた。宇垣一成陸相のもとでの宇垣軍縮で、将校達の待遇が悪化し昇進も遅れると、青年将校たちの間で不平不満が激化、さらに昭和恐慌で農村が疲弊して、農村出身の青年将校たちは、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥などがその因を作っていると考えた。
 荒木や真崎は、日露戦争時期を理想とし、天皇親政のもとで国体を明徴にし、日本の国力強化、軍の拡大が必須で、それを拒んでいる「君側の奸」を討つべしと唱え、青年将校らの崇敬を一身に集めた。しかし荒木や真崎には、明確な国体像や国政のビジョンはなく、青年将校らは思想家「北一輝」の国家社会主義的な政体思想などに指導された。
 それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走る皇道派を、危険視する空気が強く、犬養内閣時に荒木貞夫陸軍大臣に断行された露骨な皇道派優遇人事に、陸軍中堅層が反発し結集した結果、それが「統制派」とされるようになった。統制派には、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍務局長の「永田鉄山」も、軍内での派閥行動には否定的な考えをもっていた。
 1934(s9)年11月には、皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画「陸軍士官学校事件」が発覚する。その背景には皇道派と統制派の抗争があったとされるが、解明されず曖昧に処理された。さらに翌1935(s10)年8月、皇道派青年将校に共感する相沢三郎中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を、陸軍省において斬殺するという「相沢事件(永田斬殺事件)」を引き起こす。
 これらの事件では、荒木・真崎の関与は示されなかったが、荒木は1934年1月病気で陸相を辞任した。後任候補として真崎を望んだが容れられず、真崎は教育総監に回ったが、1935年教育総監をも罷免される。荒木の辞職、真崎の更迭によって、皇道派は中央での基盤を失い、焦った皇道派青年将校らが二・二六事件の暴発を引き起こすことになる。
 二・二六事件が鎮圧されたあと、荒木・真崎は直接の関与なしとなったが予備役になり、その他の皇道派の将校も予備役に追いやられ、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。統制派では、相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が中心に立ち、陸軍内での対立は統制派の勝利となると、陸軍内での勢力を急速に拡大し政治色を増してゆき、最終的に、東条英機の下で、全体主義色の強い東条内閣を成立させるに至る。
 二・二六事件で岡田啓介首相が辞任した後、短命内閣が続くが、1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。近衛文麿内閣は、組閣直後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争(支那事変)が勃発、不拡大方針を発表するが、軍部のコントロールに苦慮する。東条英機は、このとき陸軍次官として軍部の意向を代表し、1940年7月の第2次近衛内閣で陸軍大臣に就任する。
 優柔不断な近衛首相が右往左往するなか、対米戦争必至となると、近衛は内閣を投げ出し、1941年10月東条英機が首相拝命、ハルノートを受けて日米開戦となる。ところが実はこれらの背景に、「コミンテルン」(第三インター・国際共産主義運動の指導組織だが事実上スターリン支配下のソ連指揮下にあった)の工作員による大きな影響があったという説がある。
 近衛文麿首相の周辺や軍部の統制派の周りには、コミンテルンの工作員が多数配置されていて、日米開戦を促進させたとされ、また、アメリカのF・ルーズベルト政権の内部にも、日本との開戦を工作したスパイが存在したとされる。しかしこれらには明確な証拠がなく、日本の歴史学者の多くからは陰謀論扱いされてきており、主として右翼系研究者などから指摘されることが多い。
 しかし事実上、スターリン・ソ連の都合の良いように展開したという状況証拠だけでなく、日米開戦の直前には「ゾルゲ事件」が発覚し、近衛内閣嘱託の尾崎秀実も工作員だったことが判明し、コミンテルン工作の一端を覗かせた。また、「ベノナ文書」として、米国に潜入したソ連スパイがモスクワに配信した多数の暗号電文が、ソ連崩壊後に公開され、その中にも、米側に日本との開戦を促す動きが残されている。
 ヒトラーのドイツとの開戦を必至とみていたスターリンは、極東で日本と対立する2方面作戦は避けたい。そのため、公的には日ソ不可侵条約を結び、裏では日本の中枢に工作員を送り込み、日本軍の大陸勢力を南進させるように仕向けた。南進によって英・仏・蘭および米の権益と対立し、最終的に米と交戦するように工作させたというわけである。
【統制派】軍務局長永田鉄山少将
【皇道派】「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)
【統制派】相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が
1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。

ベニトの時代

2022-06-17
Facebook 佐々木 信雄さん曰く

(ムッソリーニ ファシスタ党)
*10.28/伊 ムッソリーニがローマに進撃して制圧。ファシスタ党政権を成立させる。
 ベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦前からイタリア社会党に所属し、機関誌編集長として活動したが、第一次大戦に際して積極参戦を主張し除名される。ムッソリーニは志願して従軍し有能な戦士として闘ったが、瀕死の重傷を負って終戦をむかえる。1919年3月、ミラノで、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ(戦闘ファッシ)」を設立するが、社会主義的残滓を捨てられず、一般民衆の支持を得ることはできなかった。
 やがてムッソリーニは、綱領から社会主義的な表現を一掃、民族主義を前面に出し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア、といった情緒的な表現であおり、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの主張は、戦後に頻発した社会主義者によるストライキや労働運動に、強い不安を抱いていた保守層の支持を集めた。
 北イタリアで復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に暴力的に対抗するようになると、ムッソリーニは襲撃隊を実行行動組織として傘下に収めた。1921年10月、「国家ファシスト党(PNF)」を結成、ファシスト運動を政党化し、また各地の実力行動隊も党の私兵組織として糾合され、「黒シャツ隊」と呼ばれる様になった。
 ムッソリーニは民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、1922年10月28日に黒シャツ隊を中心としたファシスト党員4万人がローマ進軍を決行した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、国王ビットーリオ・エマヌエーレ3世は、無策のルイージ・ファクタ政権をみかぎり、ムッソリーニをローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功し、39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
 ムッソリーニが創設した「ファシスト党」は、その語源から「結束党」などと訳されるが、そこから「ファシズム」という語が派生する。ファシズムというと「全体主義」とほぼ同義で使われるが、本来は一意的に規定しがたい要素を含んでいた。ヒトラーのナチスがファシズムの代表のように受取られているが、ムッソリーニのファシズムとは、かなり違っている。
 ムッソリーニは、古代ローマの系譜をうけて「イタリア民族主義」を結束の中心に置いたが、ヒトラーは「アーリア人種主義」という怪しげな概念を持出した。このようなヒトラーの脳内に生じた妄想が、優勢人種という架空の概念を際立させるために、劣勢人種ユダヤ人という概念を作り出し、その殲滅をはかった。
 ムッソリーニとってはことは簡単で、「イタリア民族」として結束して事態にあたろうというだけであった。そしてヒトラーが、古代ローマという基盤をもたないことでコンプレックスに突き動かされていると見抜いていた。ヒトラーを、まったく信用していなかったはずである。
 絵描きくずれの粗野な浮浪者だったヒトラーに比べて、ムッソリーニは、その容貌からくるイメージに反して、意外にも深いインテリジェンスをもっていた。師範学校を首席卒業して、イタリア社会党では機関誌編集長として頭角をあらわした。当時のドイツ哲学やフランス哲学を自学し、ドイツ語、フランス語など語学にも堪能で、フランス語教師として雇用されると、歴史学と国語・地理学も担当したという。
 ムッソリーニは演説でも大衆を引き付けたが、絶叫し自己陶酔するヒトラーとは対極的に、愛国心を胸に秘めながら、理路整然と理知的に語り、それでも民衆を熱狂させた。また、国家を統合するために、ファシスト党が全権を握る必要があると考えたが、自身が独裁者になるつもりはなかったという。しかし、ヒトラーが、政権奪取に利用した突撃隊を粛清したのには否定的な見解を漏らし、苛酷な粛清を嫌った。それは「独裁者」としてのムッソリーニにとって、逆に「甘さ」であったかもしれない。
 また、スイスでの放浪時代には、レーニンと知己を得て、誰も理解できないマルクス=レーニン主義の理論を、ほぼ理解したという。そのようなムッソリーニが、やがて独裁者となり、ヒトラーと結んで第二次大戦に参戦し、敗色濃厚となるとパルチザンにつかまり、愛人と共に逆さ吊りして晒されるという終末をむかえることとなる。

植野 茂幸さんのコメント、 左奥、GHQ。

2022-06-17
Facebook 渡辺 恒久さんより
三菱財閥の本拠前/1968年(昭和43年)に解体されました
当初図(ジョサイア・コンドルの設計図)
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