闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
大統領が辞めさせられました。
とうとう塀の向こうへ堕ちました。
Facebook 佐々木 信雄さん曰く
【皇室コラム】天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ
沖縄戦が終結した慰霊の6月23日が今年も巡ってきました。その日に黙とうを欠かさない天皇陛下が、沖縄を初めて訪問されたのは1987(昭和62)年9月、27歳の時です。偶然にもその旅は、昭和天皇の病気が明らかになった日に始まって手術の当日に終わり、訪問がかなわなかった昭和天皇の無念さに重なる記憶でしょう。1か月半後には当時の西ドイツで冷戦の象徴「ベルリンの壁」も目にされ、その年は、戦争を知らない世代の陛下が世界的な視野で「平和の貴さ」をかみしめた注目すべき年でした。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)
【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第18回〈天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ〉
<沖縄県民 斯か ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>
大田実司令官が出した電文
(旧海軍司令部壕ホームページより)
《原文》
062016番電
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ
然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
(■は判読できず)
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
終わりなき沖縄戦 ~ 牛島司令官、最後の命令
6月23日は、沖縄の慰霊の日。この日は、多くの人が「沖縄戦が終結した日」と考えているのではないでしょうか。しかし、正確ではありません。
牛島満軍司令官は自決の前に最後の命令を出しました。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」…つまり、最後の一兵まで戦えと命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。残った日本兵は、その後も投降を許されず、遊撃戦を続行しました。その終わりなき沖縄戦によって、一体何がもたらされたのでしょうか。
渡嘉敷島や久米島では、日本兵による住民虐殺事件が何度も起きました。それは、牛島満軍司令官が自決した6月22日以降にも、玉音放送のあった8月15日以降にも起きました。「防諜(スパイ対策)に厳に注意すべし」と生前の牛島満司令官が訓示した通り、スパイ対策は日本軍の最重要課題の一つだったのです。米軍と接触した住民は、スパイ扱いして虐殺するという徹底ぶりでした。久米島では、乳飲み子も含め、家族を皆殺しにするという残虐な事件にもなっています。
沖縄の日本軍が正式に降伏調印をしたのは、ミズーリで調印が行われた9月2日よりも遅く、9月7日のことでした。それまで沖縄の住民は、「殺されるかもしれない」という恐怖から解放されなかったのです。